ルイーズ・ブルジョワ

Louise Bourgeois

プロフィール

  60年あまりもアメリカ美術界の主流の外に身をおいて制作をつづけてきたが、その大胆かつ先鋭的な造詣は、若い世代の芸術家たちをひきつけ、時代を先取りするものとして高く評価されている。
1911年、パリでタペストリーの修復を業とする裕福な家に生まれたが、父と住み込み家庭教師との不倫に深く傷つく。ソルボンヌ大学で数学を学んだ後美術に転向。フェルナン・レジェらフランスの巨匠と学び、1938年アメリカ人の美術史家と結婚してアメリカに渡った。ニューヨークでは、マルセル・デュシャン、ホアン・ミロらと交流、ウィレム・デ・クーニングらとともに活動。ブルジョアの創作活動は一貫して、少女時代に受けた心の傷を癒すための行為であったと自身が語っている。「父の破壊」(1974)、「ヒステリーのアーチ」(1993)、「蜘蛛」(1997)など、その造詣はフェミニズム・アートとしても注目を集めている。93年のヴェネツィア・ビエンナーレにアメリカを代表して出品。95年にはニューヨーク近代美術館で回顧展が開催された。

詳しく

  美術家の作品はかなり強引なやり方による場合もあるけれども、それをなんらかの形式の集団に押し込めたり、あるいはひとつの動向のなかに位置づけるということが珍しくはない。そして、結果として、それは何々アートとか何々派といった名称と関連づけられる。ところが、ときにはどうやってみてもそうした位置づけのしがたい作品をうみだす美術家が出現する。現代の美術界を見わたした場合、その代表格としてクローズアップされるのがルイーズ・ブルジョワであろう。

その理由の第一は、ブルジョワの作品には持続的な決まった形式というのが顕著に見られないこと。第二は1980年代後半以降の作品は、今日の美術用語でいうところのインスタレーションといえなくもないが、それは閉ざされた部屋を想定した一種独特のものであって、その独特さは他に例をみないといって過言ではないということなどによる。もしブルジョワの作品の印象について問われたなら、大多数の人はその形式ではなく、作品のあたえる名状しがたい奇妙さをあげるにちがいない。
ルイーズ・ジョセフィーヌ・ブルジョワは1911年12月25日にパリで生まれたので、今年(2001年)の暮れに満90歳を迎える。現役の女性の彫刻家としてはたぶん最高齢ではあるまいか。1955年にアメリカ国籍を取得している。
ブルジョワははじめソルボンヌで数学、ついで哲学を専攻したが、やがて数学の抽象性があきたらなくなって美術へと関心を転じ、絵画そして版画の習得へ向かった。38年レジェにも絵画を学んだが、レジェは彼女の感覚は絵画より立体作品に適していると語ったという。彫刻作品を制作するようになるのは47年頃からである。そして49年に最初の彫刻作品による個展をニューヨークで開いたが、このときの作品はいくぶんトーテムを思わせる柱状のものだった。しかし、その後ブルジョワの作品は大きく変貌するに至る。
前に、彼女の作品には持続的な決まった形式が見られないと書いたけれども、それは制作の意図やモチーフにも持続するものがないということではない。その逆であって、一貫するモチーフがあるが故に、作品が多様で多彩なあらわれ方をしてきたというべきであろう。そのモチーフは家への愛着と憎悪という複合した感情である。ここで家というのは視覚的には建造物ではあるが、心理的には家族の象徴としてのそれにほかならない。
この家というモチーフは初期の絵画や版画にも歴然と示されているが、それは多くのひとが指摘するように、ブルジョワの少女期に体験した家庭生活の不幸が刻印したトラウマに根差すものであろう。具体的には父との関係だが、それに関連して彼女はこんな言葉を残している。
「私は家を捨てられない。捨てたい。捨てねば。捨てさせてほしい。計画はしたけれども、結局あきらめてしまった。」
しかし、作品は単に彼女個人の心理の図解ではない。ブルジョワの家をメタフォアとした奇怪でありときにグロテスクでもある作品は、そのまま現代社会に生きるわれわれの心理のメタフォアを思わせるからである。というのもわれわれの多くは社会によって押しつけられたさまざまなトラウマを背負って生きている。ブルジョワは新しいテート・モダンに依頼されて、巨大な蜘蛛の作品を制作したが、それはわれわれの見るこの世界にほかならない。
ブルジョワがはじめて美術館で回顧展を開いたのは、1982年MOMAにおいてだった。71歳のときである。以来、ブルジョワの評価は国際的にひろがり、99年にはヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞した。この年88歳。敬服すべき活躍ぶりである。

中原佑介
 
2010年5月、ニューヨークにて逝去

略歴


1911 12月25日、フランス、パリに生まれる

1932-35 ソルボンヌ大学で数学を学んだ後、美術に転向

1936-38 パリのエコール・デュ・ルーヴル、エコール・デ・ボザール、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールなどで学び、フェルナン・レジェに師事

1938 アメリカの美術史家ロバート・ゴールドウォーターと結婚、渡米
アート・ステューデンツ・リーグに加わり、ニューヨークで制作活動を開始

1940年代中頃 フランク・クライン、ウィレム・デ・クーニングら前衛作家たちと共に定期的に作品を展示

1945 ニューヨーク、バーサ・シェーファー画廊でドローイングの初個展

1949、50、53 ニューヨーク・ペリド画廊で個展。抽象造形の彫刻家として名声を確立
インスタレーション・アートなど様々な手法で制作する

1955以降 公の場から退き制作活動に励む

1964 プラスター、ブロンズ、ラテックスなど全く新しい素材の彫刻で美術界にカムバックし、若い世代の芸術家たちの注目をひく

1966 「エクセントリック・アブストラクション」展にブルース・ナウマン、エヴァ・ヘスらと共に招請される

1970年代 プロセス・アンド・パフォーマンス・アートとの連携

1980-90年代 ネオ表現主義やボディ・アートなどとの連携

1982-83 ニューヨーク近代美術館で回顧展、ヒューストン、シカゴを巡回し、高い評価を得る
また、今までの仕事を包括するような作品「部屋」シリーズなどの制作を開始する

1992 ドクメンタ9に出展

1993 ヴェネツィア・ビエンナーレにアメリカを代表して出品
その後、イギリスをはじめ世界各地で作品展が開催される

1995 ニューヨーク近代美術館で巨大なグラフィック作品を中心とした2度目の大回顧展
日本でも'45-94年の作品を集めた初のドローイング展

1997 横浜美術館で70点の作品からなる大回顧展

1999 高松宮殿下記念世界文化賞・彫刻部門受賞
新設のロンドン、テート・モダン美術館に大作 「I do I undo I redo」 を据え付ける

2007-08 テート・モダンで回顧展開催

2010 5月31日、ニューヨークにて逝去

主な作品 1967    「眠りⅡ」
1968    「花咲けるヤヌス」
1974    「父の破壊」
1984-94 「自然研究」
1991    「部屋Ⅰ」
1993    「ヒステリーのアーチ」
1996    「部屋(衣服)」
1997    「蜘蛛」