クリスト と ジャンヌ=クロード

Christo & Jeanne-Claude

プロフィール

  クリスト夫妻の「梱包」芸術は瓶や椅子など日常の小さなものを包むことから始まり、マイアミの11の島々をピンクの布で包囲(1983)、パリの橋を白い布で覆った「ポン・ヌフの梱包」(1985)など、景観そのものを対象とするようになる。作品はまさに壮大なプロジェクトと呼ぶにふさわしい。
  夫妻とも1935年の同月、同日生まれである。クリストは生地ブルガリアで美術を学び、1956年20歳のとき西側に脱出。パリでフランス人のジャンヌに出会い結婚。この頃からパリの狭い街路をドラム缶で封鎖するなど、特異な芸術活動を始める。
  64年、ニューヨークへ移住。1995年の「梱包されたライヒスターク」は、着想から実現までに25年、旧ドイツ帝国議会議事堂が灰銀色の布と青いロープで梱包された。実現までの社会的、政治的な交渉、経済的な問題、プロジェクトにかかわった人々との交流、クリストはこうした全過程を自らの作品とみなしている。作品は全て夫妻の共同作業である。そして完成した作品は人々の想像力をかきたてて2-3週間で撤去される。日本では1991年に6年間の準備を経て、茨城県とカリフォルニアとに、同時に3100本の傘を立てた「アンブレラ」が注目をあびた。常に美術界ばかりでなく、社会的にも大きな話題を投げかけている。

詳しく

  クリストとジャンヌ=クロードは1991年、茨城とカリフォルニアとで、『アンブレラ・プロジェクト』を同時に実現した。茨城県の田園地帯19キロにわたり1340本の青い傘が、カリフォルニア側では1760本の黄色の傘がいっせいに花開いた。谷あいの日米ふたつの土地の利用法の類似点や相違点を浮き彫りにするのが、プロジェクトの目的であった。そして傘の配置には画家クリストの目が光っており、農家の夕餉の煙が傘のブルーににじんでいくあたりは、さながら一幅の絵であった。

  1995年には、構想に25年の歳月をかけたプロジェクト『梱包された旧ドイツ帝国議会議事堂』が実施された。共産主義の終焉に続くドイツ再統一に照らして、きわめて象徴的な重要性をもつ議事堂が、銀灰色の布と青いロープでおおわれた。そうすることによって、この建物が具現化していた権力とエネルギーとを逆説的に強調したのである。
  どちらのプロジェクトも巨額の費用がかかったにもかかわらず、2-3週間で消えていった。その美学の一時性について、クリスト自身は「芸術の不朽性という傲慢な概念への挑戦」と説明する。クリストとジャンヌ=クロードは彫刻の概念を根底からくつがえした。
  クリスト夫妻にとって「梱包」という行為は、ものの本質を明らかにするばかりでなく、もののかたちを詩的なエッセンスにまで単純化することを意味する。その仕事は日常性へのこだわりという面からポップ・アートに、単純化という点からミニマリズムに結びつく。たとえば、彼らがニューヨークに移住した直後に制作された『ストアフロント(店先)』のシリーズは当初、ポップ・アートとみなされたが、後にミニマリズムの先駆と認められている。
  本名クリスト・ヤヴァシェフは1935年6月13日、ブルガリアで生まれ、ソフィアの美術アカデミーで学んだ後、プラハ、ウィーンを経て1958年にパリに移った。パリで物体を梱包する作品をつくりはじめ、生年月日がまったく同じのジャンヌ=クロードと出会う。西側へ亡命直後のクリストの作品をジャンヌ=クロードは「自由の叫び」と表現している。ふたりは1964年にニューヨークヘ移住した。最初に梱包した公共建築物はベルン美術館(1968)だったが、次第に巨大な景観そのものを対象とするようになり、作品というよりプロジェクトという呼称がふさわしい大規模な仕事に夫妻で精力的に取り組んでいく。シドニーの『梱包された海岸』(1969)、コロラドの峡谷に巨大なオレンジ色の布のカーテンを吊った『ヴァレー・カーテン』(1972)、カリフォルニアの牧草地帯に延々40キロにわたって布のフェンスを連ねた『ランニング・フェンス』(1976)と、次々に壮大なプロジェクトを実現していき、美術界ばかりか社会的にも大きな話題を投げかけた。1983年、ピンクの布で『囲まれた島』がマイアミのビスケーン湾に出現し、85年にはパリの歴史的に由緒ある橋を白い布でおおった『ポン・ヌフの梱包』で反響をよんだ。芸術は美術館という不毛な環境ではなく、人々の日常生活のなかで、生き生きとした場を占めるべきだというのが、クリスト夫妻の信念なのである。
  日本とのつながりは1970年にさかのぼる。この年の春、上野公園内の旧東京都美術館で「人間と物質」をテーマにした第10回東京ビエンナーレが開かれた。ソル・ルウィットやリチャード・セラなど海外からの多くのアーティストとともにクリストも参加、上野公園のすべての歩道を梱包するというプランを出した。結局、許可が降りずに美術館の彫刻室を梱包するにとどまったが、クリストの理論と実践は、当時の日本の美術界に強い衝撃を与えた。
土地や建造物を含めた既存の環境を改変するわけだから、いずれのプロジェクトも必然的に社会の規制とかかわってくる。クリスト夫妻は長い年月をかけて関係官庁から地権者や住民まで、おびただしい数の人々と交渉していかねばならない。プロジェクトに要する莫大な費用もすべて自弁で、実現へ向けてのプロセスである平面作品(絵画、素描、版画)や模型の売り上げで調達される。ボランティアにも日当を支払う。「作家の自由を守るため」と、いかなる援助をも拒絶するのだ。 プロジェクトは、地域や社会全体を巻き込みながら賛否両論をかき立て、芸術への関心を喚起させ、そのあいだにさまざまな問題が露呈されていく。それらのプロセスの総体に、長い労苦の果て「作品」そのものは雲散霧消していく虚しさ、はかなさをも含めたところに、彼らの芸術の全体像があるのだろう。

松村寿雄

 

2009年11月18日、ジャンヌ=クロード、ニューヨークにて逝去

 

略歴

  1935
クリスト:6月13日、ブルガリア、ガブロヴォに生まれる
本名クリスト・ヤヴァチェフ
ジャンヌ=クロード:同月同日、現モロッコ、カサブランカに生まれる
本名ジャンヌ=クロード・ド・ギユボン
  1953-56 クリスト、ソフィアの美術学校で学んだ後、プラハに移る
  1957 クリスト、ウィーン美術アカデミーで学ぶ
  1958  クリスト、パリに移り、ジャンヌ=クロードと出会う
  1961 公共の建物の梱包、積まれたドラム缶、ケルン港における「埠頭のパッケージ」など、二人で共同のプロジェクトを始める
  1962 「鉄のカーテン、ドラム缶の壁」(パリ、ヴィスコンティ街)
  1964 クリストとジャンヌ=クロード、ニューヨークに移住
  1966 「空気の梱包(エア・パッケージ)」(オランダ、ステディリク・ヴァンアベ美術館)
「42,390立方フィートの気体の梱包」(アメリカ、ミネアポリス美術学校ウォーカー・アートセンター)
  1968 「噴水の梱包」、「中世の塔の梱包」(イタリア、スポレート)
「ベルン市立美術館の梱包」(スイス)
「5600立方メートルの梱包」(ドクメンタ展、ドイツ、カッセル)
  1969 「噴水の梱包」、「中世の塔の梱包」(イタリア、スポレート)
「ベルン市立美術館の梱包」(スイス)
「5600立方メートルの梱包」(ドクメンタ展、ドイツ、カッセル)
  1970 「梱包されたモニュメント、レオナルド・ダ・ヴィンチ」
「梱包されたモニュメント、ヴィットリオ・エマニュエル」(ミラノ)
  1972 「ヴァレー カーテン、コロラド州ライフル、グランド・ホグバック、1970-72」
  1974 「壁、梱包されたローマ時代の壁、ローマ、ヴェネト街、ヴィラ・ボルゲーゼ」
「オーシャン フロント、ロードアイランド州ニューポート」
  1976 「ランニング フェンス、カリフォルニア州ソノマ郡とマリン郡、1972-76」
  1977-  「アブダビのマスタバ、アラブ首長国連邦のためプロジェクト」
  1978
「覆われた遊歩道、ミズーリ州カンザスシティー、ルース記念公園、1977-78」
  1983 「囲まれた島々、フロリダ州マイアミ、ビスケーン湾、1980-83」
「門、ニューヨーク、セントラル・パークのプロジェクト」(進行中)
  1985 「ポン ヌフの梱包、パリ、1975-85」
  1991 「アンブレラ、日本-米国、1984-91」
  1995 「梱包されたライヒスターク、ベルリン、1971-95」
高松宮殿下記念世界文化賞・彫刻部門受賞
  1999
「壁、13,000個の石油缶、ガスタンク、ドイツ、オーバーハウゼン」
  2009 ジャンヌ=クロード:11月18日、ニューヨークにて逝去
  2020
クリスト:5月31日、ニューヨークの自宅にて逝去