ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ

Hans Werner Henze

プロフィール

  ハンス・ヴェルナー・ヘンツェは、オペラ、バレエ、交響曲、室内楽など、幅広いジャンルで作曲を続け、現代オペラにおける業績は特に高く評価されている。
1926年、ドイツのウエストファーレン州生まれ。ナチス時代に現代音楽や文学がことごとく抑圧されるのを目撃し、大きな影響を受けた。戦後、当時の現代音楽のメッカといわれたダルムシュタットの国際現代音楽夏期講習に参加、新進作曲家として脚光を浴びる。しかし、同時代の作曲家が、前衛音楽の旗手ともはやされたのに対して、彼は作曲技法を限定するその行き方にあきたらず、53年、イタリアに移住、独自の道を行くことになる。南国の風土は彼の音楽に豊かさと彩りを加え、バレエ音楽「オンディーヌ」(1957)、オペラ「鹿の王」(1955)、「若き恋人たちの悲歌」(1961)、「バッコスの巫女」(1965) など、現代的叙情にあふれた作品を生む。しかし、反戦運動が盛り上がった60年代後半から70年代にかけては、政治的なメッセージをこめた作品が多くなった。69年にはキューバに滞在。オラトリオ「メドゥーサの筏」(1970)、声楽曲「逃亡奴隷」(1976) などを作った。
その後も「レクイエム」(1993)、「第8交響曲」(1993)、「第9交響曲」(1997)、「第10交響曲」(2002予定)など、その活動はますます旺盛である。

詳しく

  昨(2000)年8月にサントリーホールで行われた恒例の「サマー・フェスティヴァル」のテーマ作曲家はヘンツェ。-作曲生活50年の軌跡-というサブ・タイトルで1947年の《交響曲第1番》から97年の《交響曲第9番》までに至る作品が演奏されたが、そのプログラムに彼は次のようなメッセージを寄せている。「みなさん、これから聞かれるものは、遠くに視点を取れば、すべて私の仕事のゴールである第9交響曲とそこで語られる言葉に向かってのプレリュード、準備運動となるものです」。
この《第九》の扉には「ドイツの反ファシズムの英雄と殉教者たちに捧げる」と記されている。混声合唱とオーケストラのための作品のテキストはドイツのアンナ・ゼーガースの小説『第7の十字架』に基づくもので、ナチスの強制収容所から幾多の危機を経て脱出したコミュニストの回想をドラマティックに表現する。そしてこの反ファシズムと新左翼への傾倒は、ヘンツェの創作活動を一貫する通奏低音なのだ。
ヘンツェは1926年、ヴェストファーレンのギュータースローに、学校教師を父とする中流階級の家庭に生まれた。経済的に恵まれない家庭で彼は音楽を志し、ブラウンシュヴァイクの音楽学校へと進んだが、これは本来父親の希望するコースではなかった。台頭しつつあったナチスはヘンツェの家庭をも侵食していったが、彼は「禁書」を読み耽った。父親が戦死した翌年の1944年には自身招集され、イギリス軍の捕虜として終戦を迎える。
それまでも多くの作曲を試みていたヘンツェは46年から2年間、ハイデルベルクの教会音楽研究所で高名な理論家、フォルトナーに師事する幸運を得、以後順調な作曲家とてのキャリアをスタートさせることになる。早熟なヘンツェはフォルトナーのもとで多くの作品を書き、師とともに出席した46年の第1回ダルムシュタット国際現代音楽夏季習で《室内協奏曲》が演奏されたが、これは後にこの講習(音楽祭)を舞台に台頭するノーノ、ブーレーズ、シュトックハウゼンなどよりはるかに早いデビューだった。ヘンツェはここで十二音音楽の使徒と言われるレイボヴィッツに学ぶが、この技法に捕らわれることはなかった。
以後のヘンツェは西洋音楽がそれまでに獲得してきた技法を自在に使い分け、調性的書方から十二音技法、偶然性、テープ音楽の方法までを駆使して自らの表現を追求する道を歩みだす。そうしたヘンツェにとって重要なジャンルは20世紀に「不毛」と考えられたオペラであり、48年の《不思議な劇場》を皮切りとして《孤独通り》、《鹿の王》、《若い恋人たちへのエレジー》、など今日の作曲家としては異例なほどの多くの舞台作品を産んでいる。
これら多くの作品で扱われている主題は今日の状況におけるアンビヴァレンスであり、そうした状況の告発そのものだ。実際、彼は1953年にドイツを離れ、イタリアに住居を移しているが、おそらくこれは母国に対するある種の憎悪に由来するものであろう。より直接的に新左翼的な立場を表明した作品としては、チェ・ゲバラの追悼に捧げられた《メデゥース号の筏》、キューバ人奴隷の一生を描いた《エル・シマロン(逃亡奴隷)》などがよく知られている。冒頭に記したように、その《第九》にヘンツェがこの困難な時代、20世紀を生きた査証としたことは、このようにその生涯を顧みるとき、まったくもっともなことと思われる。
作曲技法的にはドイツとイタリアの伝統を引き継ぎながら新しい方法を取り入れる。これはいわゆる「折衷主義」と言うべきだろうが、その方法論は今日一般的になっている、手中に出来る技法を何でも利用するという風潮を先取りするものであり、しかもその洗練されたテクニックは「ヘンツェ」の名を20世紀の作曲家として別記させる。

武田明倫
 
 
 
 

略歴

  1926 7月1日、ドイツ、ギュスタースローで教師の家庭に生まれる
12歳の頃から独学で作曲を始める
  1942 ブラウンシュヴァイク国立音楽学校に入学
  1944 兵役
  1945 ビーレフェルト市立劇場の練習ピアニストとなる
  1946 ハイデルベルクの教会音楽学校で再び学ぶ
ヴォルフガング・フォルトナーに作曲の指導を受ける
ダルムシュタットの夏期講習に参加
  1948 パリでルネ・レイポヴィッツに師事し、十二音技法を学ぶ
この時代の代表作、「交響曲第1番」(47年)、「交響曲第2番」(49年)、カンタータ「アポロとヒュアキントス」(49年)などはシェーンベルクの影響を受けている「ピアノ&ロジャース」 設立
ポンピドー・センター(パリ)の設計競技に入選
  1950-53 ヘッセン州立劇場の芸術監督兼指揮者に就任
  1953- イタリア、イスキア島に居を移す
カフカ原作によるオペラ「村の医者」でイタリア放送協会のイタリア賞受賞
ダルムシュタットから離れた作風のオペラ「鹿の王」(56年)、「交響曲第4番」(55年)を作曲
「若い恋人たちへのエレジー」(61年)で、より自由で新古典的作風へ
  1960-68 西ベルリン芸術アカデミー会員
  1962-67 ザルツブルク、モーツアルト学院で作曲を教える
  1966 「若い恋人たちへのエレジー」日本初公演のため来日
  1969-70 60年代後半からマルクス主義に傾倒し、第2の転機を迎える
キューバのハバナに滞在し教育と研究にあたる
「交響曲第6番」(69年)、チェ・ゲバラに捧げるオラトリオ「メデュース号の筏」(68年)、逃亡奴隷を主人公にした「エル・シマロン」(69~70年)、ガストン・サルバトーレの詩による「ナターシャ=ウンゲホイエル家への険しい道のり」(71年)など新左翼的傾向の強い作品を作曲
  1971 テープを用いたライヴ・エレクトロニクス作品に関心を持ち、「ヴァイオリン協奏曲第2番」や「トリスタン」(73年)を作曲
  1975 英国ロイヤル音楽アカデミー名誉会員
  1980-91 国立ケルン音楽大学作曲科教授
  1987 英国ロイヤル音楽アカデミーの作曲科教授
  1988 ミュンヘン・ビエンナーレを創設、芸術監督となる
  1991 ベルリン・フィルハーモニーのコンポーザー・イン・レジデンス
  1992 サントリーホールの国際作曲委嘱シリーズNo.16で「3つの宗教的コンチェルト」を作曲
  1998 サントリーホール(東京)のサマーフェスティバルで、ヘンツェ作品集のコンサート
  2000 高松宮殿下記念世界文化賞・音楽部門受賞
  2012 10月27日、ドイツ東部ドレスデンにて逝去
  主な作品 1951       「ラビリント」 (バレエ)
1952       「孤独通り」 (オペラ)
1956-57     「オンディーヌ」、「マラトン」 (バレエ)
1960       「ホンブルクの皇子」 (オペラ)
1965       「バッカスの巫女たち」、「若い貴族」 (オペラ)
1967       「自由の讃歌」 (弦楽合奏曲)、「テレマンニアーナ」
1971       「刑務所の歌」 (カンタータ)
1976       「われわれは川に来た」 (オペラ)
1977       「三つのティエントス」 (室内楽曲)
1978-86     「オルフェウス」 (バレエ)
1980       「ポッリチーノ」 (児童オペラ)
1983       「イギリスの猫」 (オペラ)
1983-84    「交響曲第7番」
1990-91    「レクイエム」
1992-93    「交響曲第8番」
1995-97    「交響曲第9番」
1998-2000 「交響曲第10番」