アルヴォ・ペルト

Arvo Pärt

プロフィール

 独自の存在感を誇るエストニア生まれの作曲家。1963年に27歳でタリン音楽院(現エストニア音楽演劇アカデミー)を卒業。ソ連統治下、わずかに手に入る情報をもとに、現代音楽の技法を身につけた。1960年代後半から、グレゴリオ聖歌など中世の単旋聖歌、ルネサンス期の多声聖歌など「祈り」の音楽の探求に転じ、簡素な音の組み合わせを、まるで鈴の音が鳴り続けるように一定のリズムで繰り返す「ティンティナブリ」という技法を見つけ、1976年のピアノのための小品『アリーナのために』で独自のスタイルの確立を印象づけた。2010年にはエストニア各地で生誕75周年を記念するイベントが行われ、30年ぶりに祖国に帰国。首都タリン近郊に自筆の楽譜、各種資料などを保管する「アルヴォ・ペルト・センター」が設立された。エストニアから初の世界文化賞受賞。

詳しく

 独自の存在感を誇るエストニア生まれの作曲家。現代で最も優れた作曲家の一人と評され、その作品は世界で最も多く演奏されているといわれる。

  幼いころからピアノを習っていたが、ピアノの練習よりも作曲する方が好きという子供だった。10代半ばにはすでに作品を残している。放送局の音響エンジニアをしながら、1963年に27歳でタリン音楽院(現エストニア音楽演劇アカデミー)を卒業。当時のエストニアはソ連の統治下にあり、西欧の最新の音楽や宗教的な音楽は、全体主義の体制下、軒並み禁じられていた。

  そうした厳しい環境の下、何とか手に入れた12音技法の教本やわずかに手に入る録音テープを聞き、現代音楽の技法を身につけていった。そのころの自由への希求について、「鉄条網をすり抜けてくるものには何でも興味を持ちました。毒でも薬でも、何でもよかったのです」と語る。

  しかし、そのようにして身につけた12音技法での創作は、旧ソ連政府の批判の対象となるばかりでなく、自身の限界を感じさせるものでもあった。その壁を打ち破るべく、1960年代後半から、「西洋音楽の根源への実質上の回帰」ともいうべき、グレゴリオ聖歌など中世の単旋聖歌、あるいはルネサンス期の多声聖歌といった「祈り」の音楽の探求を始めたのである。

  ロシア正教に帰依しながら、複雑な現代音楽とは異なる原初的な宗教音楽を研究することで見つけ出したのは、「ティンティナブリ」(鈴鳴らし)という技法だった。8年間の"沈黙"を破って、1976年に発表されたピアノのための小品『アリーナのために』では、簡素な音の組み合わせを、まるで鈴の音が鳴り続けるように一定のリズムで果てしなく繰り返していくその表現方法を用い、自身の独自のスタイルの確立を印象づけた。

  バイオリンとピアノのための『タブラ・ラサ』(1977)や『鏡のなかの鏡』(1978)など器楽曲での評価もさることながら、『ヨハネ受難曲』(1982)など合唱曲の評価も高い。

  1980年に妻子を連れてエストニアからオーストリアのウィーンに移住、後にドイツを拠点として活動。2010年にエストニア各地で生誕75周年を記念するイベントが行われ、祖国に帰国。首都タリン近郊のバルト海を望む森の中に、自筆の楽譜、各種資料を保管する「アルヴォ・ペルト・センター」も設立された。

  1990年の初来日以来、今回が3回目の来日で、「私の音楽の全てを把握している」という音楽学者のノーラ夫人と息子2人が同行する。エストニアから初の世界文化賞受賞。

略歴

  1935 エストニア・パイデ生まれ
  1963 タリン音楽院(現エストニア音楽演劇アカデミー)卒業
  1958-67 エストニア放送局の音響技師として働きながら作曲をする
  1968 『クレド』(1968)を最後に創作活動休止、8年間の沈黙と研究の期間に入る
  1976 『アリーナのために』で「ティンティナブリ」(鈴鳴らし)様式を確立
  1977 『タブラ・ラサ』
  1978 『鏡の中の鏡』
  1980 家族とオーストリア・ウィーンに移る(1981ベルリンに移る)
  1982 『ヨハネ受難曲』
  1990 初来日、『ヨハネ受難曲』演奏
  1984 『テ・デウム』
  1989 『マニフィカト』
  1994 『リタニ』
  1995 アメリカ芸術文学アカデミー協会音楽賞受賞
  2008 レオニー・ソニング音楽賞受賞
  2010 エストニアに帰国
タリン近郊に「アルヴォ・ペルト・センター」設立
  2011 レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章受章
  2014 グラミー賞合唱部門受賞(『アダムの嘆き~ペルト:合唱作品集』)