ゲルハルト・リヒター

Gerhard Richter

プロフィール

  手ぶれを起こしてピントが合わなかった写真かと見まがうような人物像や風景画、色見本のようなカラーチャート、色彩鮮やかな抽象画など、一人の画家としては異例なほどさまざまなスタイルを駆使する。
  1932年、東ドイツのドレスデンに生まれ、同地の美術アカデミーに学ぶ。59年、カッセルのドクメンタⅡなどでポロックやフォンタナらの西側の現代美術にふれて衝撃を受ける。ベルリンの壁ができる半年前、29歳で西ドイツに移住。「かつて画家は外に出てデッサンした。われわれはシャッターを押すだけ」と、1962年、新聞写真を基にした「机」という作品を発表して、写真をキャンバスに描き出すというスタイルを早くも生み出した。“絵画の終焉”が語られた70年代に本格的な活動を始める。テロリストグループの死を扱った15点の連作「1977年10月18日」(1988)は大きな論争を呼んだ。
  写真を元にして描いたロウソクやリンゴ、彼自身の娘の肖像「ベティ」(1988)、母子像「Sと子供」(1995)など、その問題意識は終始一貫して“写真性”と“光”にあり、絵画の本質を追求するその試みは世界の美術界の注目を集め続けている。

詳しく

  美術界は今、写真と映像の氾濫である。どちらを抜きにしても、現代の美術について語り得ない。たとえば1997年の夏のヨーロッパ、ヴェネツィアの第47回ビエンナーレやカッセルの第10回ドクメンタの2大国際美術展にしても、個としての絵画や彫刻が影をひそめつつある反面、ヴィデオ・アートや映画、インターネットまでも駆使したハイテク・アートの隆盛には目を見張るものがあった。そしてどちらの会場でもゲルハルト・リヒターの作品群は他を圧していた。ヴェネツィア・ビエンナーレでは国際賞を受賞した。

  リヒターに『エマ(階段を降りる裸婦)』(1966)という作品がある。マルセル・デュシャンの有名な作品を踏まえたもので、一見すると、焦点のぼけた写真だが、実は写真をもとに油彩で「描いて」あるのだ。しかも、手ぶれを起こしてピントが合わなかったように、わざとぼかして描き出す。フォト・リアリズム、スーパー・リアリズムなどと呼ばれたリチャード・エステスやチャック・クロースの技法は、写真をもとに対象を精密に復元する。そのあまりの精密さに、見るものは唖然とさせられる。わざとぼかして描き一種の不安感、焦燥感をかきたてるリヒターは、彼らとは対極に位置する。
リヒターは後年、この油彩画の『エマ』を改めて写真に撮り拡大してプリントにした写真作品の『エマ』(1992)を発表した。油彩の自作を、ふたたび写真というメディアを使って作品化したわけで、このほうは12点制作したという。いわば、絵画と写真との関係に揺さぶりをかけ、絵画というものの概念を変えたといっていいだろう。
  リヒターは1932年、旧東ドイツのドレスデンで生まれ、15歳のころ画家を志した。ドレスデン美術アカデミーを出た後、1959年に旧西ドイツに旅行し、カッセルのドクメンタでジャクソン・ポロック、ルチオ・フォンタナの抽象絵画を見て衝撃を受けた。1961年2月には、デュッセルドルフに移住、東西を分断する壁がベルリンにできる半年前だった。デュッセルドルフの美術アカデミーでジグマー・ポルケらに出会って、「資本主義リアリズム」のためのデモンストレーションをおこなった。
  「かつて画家は外に出てデッサンした。われわれはシャッターを押すだけだ」。リヒターは1962年、新聞写真をもとにした『机』という作品を発表。写真をキャンバスに描き写すという特徴的なスタイルを早くも生み出した。ピンぼけのような効果を与えることで、独自の絵画作品として完成させたのである。この『机』を作品番号「1番」として、以後の作品にはすべて通し番号がつけられている。1964年、ミュンヘン、デュッセルドルフ、ベルリンで個展を開催した。
  リヒターは1973年の『ノート』で、主観性への嫌悪の情を披瀝し、近代のドイツ美術に支配的だった表現主義、戦後の、表現主義的な絵画や彫刻に対する世間一般の熱狂に背を向ける姿勢を示した。個人的な感情をいっさい排除して、制作に当っては、「極めて敏感で無関心で従属的な機械のように反応する」ことを望んだ。
  こうした理論のもと、リヒターは、格子状のカラー・チャート、絵具の塗りのテクスチャーだけが見てとれる灰色一色の画面、絵具を厚く塗ってかき落とす鮮やかな色彩の抽象画と、次々に新たな試みに挑んだ。ときにはウンベルト・ボッチョーニら未来派の画家が試みたように人の動きをコマ送りのように見せたり、近年は写真の上に油絵具を乗せたオイル・オン・フォトグラフ、ガラス板にカラー・シートを張ったミラー・ペインティングなどの技法を創始するなど、多彩な展開をみせている。リヒターが、「絵画の終焉」がささやかれはじめた1970年代に本格的な活動をはじめたというのも象徴的だ。
  1980年代に入ってからは、宗教美術史でおなじみのロウソク、リンゴ、ドクロなどの象徴的なイメージを写真をもとに繊細に描き、同じ技法を使って彼自身の娘の肖像『ベティ』(1988)や、母子像の『Sと子供』(1995)などを制作した。ドイツ赤軍のメンバーの獄中死を扱った『1977年10月18日』(1988)は、単に事件を記録したものではなく、「同情と悲しみ」に駆られて描いた「言葉に尽くせぬ感情のひとつの表現」とリヒター自身が明言している。「個人的な感情をいっさい排除」したいと『ノート』にしたためた1973年のころと比べて、その芸術観も変わってきたのかもしれない。
リヒターは今、ケルンに拠点をおいている。統一ドイツの首都移転に伴い、1999年に完成する旧帝国議会議事堂内に壁画を描くことになっている。アトリエに模型を置いて、構想を練っているという。
  1997年秋、世界文化賞受賞記念に西新宿の画廊で開かれた個展には、前記の『エマ』(1992年版)のほか、強烈な色彩が溶け合う水彩の抽象画など最新作約50点が披露された。日本での本格的な回顧展が待たれるアーティストである。

松村寿雄

略歴

  1932  2月9日、旧東ドイツ、ドレスデンに生まれる
  1948-51 旧東ドイツ、ツィタウで舞台背景、広告板を描く
  1952-57 ドレスデン芸術アカデミーでフリー・ペインティングと壁画を学ぶ
  1959 カッセルのドクメンタⅡを訪れ、ポロック、フォンタナらの抽象画に感銘を受けて西側への移住を決意
  1961 西ドイツへ移住
デュッセルドルフ美術アカデミーでカール・オットー・ゲッツのもとで2年間学ぶ
  1963 ジグマール・ポルケらと“資本主義リアリズム”のためのデモンストレーションを行なう 
  1964 ミュンヘンのハイナー・フリードリッヒ・ギャラリー、デュッセルドルフのアルフレート・シュメーラ・ギャラリーで初個展
  1969 東京国立近代美術館グループ展に出品
  1971-1994 デュッセルドルフ・アート・アカデミー教授
  1972 「48のポートレート」(71~72年)を制作し、ヨーロッパ各地で発表
収集した写真やコラージュ、ドローイングをまとめた「アトラス」をブレーマーハーフェンの現代美術ギャラリー、ユトレヒト現代美術館で発表
ヴェネツィア・ビエンナーレのドイツ館に出品
ドクメンタⅤ(カッセル)に出品、以後毎年出品
  1983 アトリエをケルンに移す
  1986 デュッセルドルフ、ベルリン、ベルン、ウィーンで巡回回顧展
  1988 シカゴ現代美術館、トロント美術館等で回顧展
  1991 ロンドン・テート・ギャラリーで回顧展
  1993-94  大回顧展(ボン、ドイツ美術センター、パリ市立近代美術館、ストックホルム近代美術館、マドリッド、レイナ・ソフィア国立美術館)
ドイツのインゼル社より 「ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論1962-1993」を出版
  1996、97  東京、ワコー・ワークス・オブ・アートで個展
  1997 高松宮殿下記念世界文化賞・絵画部門受賞
ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞
  作品 1962  「机」(個人蔵)
1965  「ルディ叔父さん」(プラハ、中部ボヘミア美術館)
1966  「エマ(階段を下りる裸婦)」(ケルン、ルードヴィッヒ美術館)
1970  「海景」(ベルリン国立美術館)
1973  「テツィアーノの受胎告知」
            (クレックス・コレクション、シャフハウゼン新芸術館)
1974  「256色」(個人蔵)
1975  「グレー」(連作)(ヘンメングラードバッハ市立美術館)
1982  「2本のろうそく」(連作)(シュピーゲル・ファミリー・コレクション)
1987  「コブレンツ近郊の風景」(モントリオール美術館)
1988  「1977年10月18日」(ニューヨーク近代美術館)
            「ベティ」(セントルイス美術館)
1992  「小川」(個人蔵)