エレン・スチュワート

Ellen Stewart

プロフィール

  「実験的で前衛的な演劇を」と、ニューヨークのダウンタウンに「ラ・ママ実験劇場」を創設以来、半世紀近く、主宰者、プロデューサーとして多くの才能を発掘、世に送り出してきた。五番街の有名デパートで黒人初のエグゼクティブ・デザイナーとして働いて蓄えた貯金を基に、自前の劇場を確保した。人種差別の激しかった時代で、場所を転々としながらも舞台を守り続けた。「演劇にではなく、人に興味があった。今もそれは変わらない」と笑う。演劇を志す人への温かく確かな目は、ここから多くのスターや名舞台が生まれたことで証明されている。新人時代のロバート・デ・ニーロ、サム・シェパード、アンディ・ウォーホルらも支援を受け、1970年代に寺山修司や、東由多加率いる東京キッドブラザースが公演を行なった。最近は民話を題材にした演劇で活動の場を広げている。

詳しく

  ニューヨーク市マンハッタンのダウンタウンにある「ラ・ママ実験劇場」。最大のスペースでも300席と小さいが、ブロードウェーに代表される商業演劇とは一線を画し、半世紀近くにわたって、世界から集まってくる先駆的な才能を紹介し続けている。
発表の場を与えるだけでなく、寝食を共にし、活動を見守る。国籍も人種も関係ない。「舞台で見たものより、あなたたちと一緒にいられることに強い印象を受ける」。世界の演劇人から「ママ」と慕われるゆえんだ。

1950年、シカゴからデザイナーを目指してニューヨークにやってきた。名門デパートで黒人女性初のエグゼクティブ・デザイナーになるが、体調を崩して退職。同じころ、義兄が脚本を書き始めた。しかし、黒人が作る舞台を上演する場はない。「ならば」とデザイナー時代に蓄えた貯金をはたいて自前のスペースを確保した。
無許可営業で拘束されたこともあったが、場所を転々とし、活動を続けた。既存の規制や条件とは無縁の「ラ・ママ」はたちまち若手芸術家の集まる場所になり、その評判は海外にも伝わっていく。

日本との縁も深い。1960年から70年代にかけて、天井桟敷の寺山修司や、東由多加率いる東京キッドブラザースが公演を行った。新人時代のロバート・デ・ニーロ、サム・シェパード、アル・パチーノ、アンディ・ウォーホルらも彼女の支援を受けている。
前衛的・実験的といわれることには、「そういう区分けはよく分かりません」とやんわり断りながら、「われわれがやるのは音楽とダンスと言語。言語は障壁でない。言語を超えた言語でコミュニケートする道を発見することが大事なのです」と、ラ・ママ演劇の本質を語る。
これを裏付けるように、オリジナル作品で、運命の悲劇を透徹した目で描いた「トロイアの女たち」(1974年初演)は、古代ギリシャ語という難解な言葉で演じられたにもかかわらず、世界各国で高い評価を得た。

 現在も開幕前にベルを鳴らし、その日の演目を紹介する。尽きぬバイタリティは「人と会い、人が幸せでいること、創造するのを見ること」から生まれるという。

 

2011年1月13日、ニューヨークにて逝去。

 

略歴


1919 アメリカ・シカゴに生まれる

1961 ニューヨーク市のダウンタウンに地下室を借りて劇場に。「カフェ・ラ・ママ」と名づける

1962 最初のオリジナル劇が上演、この年17演目を数える

1964 カフェを「ラ・ママ実験劇場」と改名

1965 海外公演の最初の巡業がヨーロッパに出発、以後‘69年まで続く

1966 ロックフェラー財団が劇団の脚本家数人に資金援助をする

1968 フォード財団からの献金で、現在の劇場となる4階建てのアパートを購入
マサチューセッツ州でアメリカ初の国際演劇祭を主催

1969 ルーマニアの舞台監督で後にラ・ママ劇場の中心的存となるアンドレイ・シェルバンと会う

1970 東由多加率いる東京キッドブラザースが「黄金バット」を上演

1974 代表作の一つとなる「トロイアの女」をシェルバンと初演

1980 寺山修司の「奴婢訓」上演

1985 マッカーサー天才賞を受賞、イタリア・スポレトに芸術家村を開拓

1992 倉本聡の「今日、悲別で」上演

1993 オフオフ・ブロードウェーから初めてブロードウェー殿堂入りする

1994 日本政府より勲四等瑞宝章が贈られる

1997 堤春恵の「歌舞伎仮名手本ハムレット」上演

2002

日本人による舞台の記録を集めた回顧展が開かれる

富山市の芸術劇場で「トロイアの女」が上演される


2006

劇場の45周年を祝う

(スチュアート氏と「ラ・ママ実験劇場」はこれまで1000以上のオリジナル劇を上演、70ヶ国以上からアーティストを受け入れ、数知れない賞を得ている)


2011

1月13日、ニューヨークにて逝去