ビル・ヴィオラ

Bill Viola

プロフィール

ビデオという新分野の先駆者として、映像芸術を牽引し、ビデオの可能性を追求し続けるビデオ・アートの第一人者。ニューヨークに生まれ、シラキュース大学美術学部で映像や電子音楽を学ぶ。水や火、光など根源的な要素を使用し、生と死、再生、信仰といった宗教的、哲学的なモチーフを主題とする。母親の死後に制作した作品では自身の心象を表現し、転機となる。1980年から一年半、共同制作者でもある妻のキラ・ペロフと日本に滞在。日本の伝統文化に触れ、禅の師匠でもある画家、田中大圓を師と仰ぐ。東北の霊場・恐山や東京・築地など日本の風景をとらえた《はつゆめ》を制作。アジア初の大回顧展『ビル・ヴィオラ:はつゆめ』が、森美術館(2006)と兵庫県立美術館(2007)で開催された。来春、ロンドンのセント・ポール大聖堂に設置される「ビデオ礼拝所」を制作中。


 

詳しく

  生み出す作品は“動く絵画”とも称されるビデオ・アートの第一人者。35年以上にわたり、ビデオという成熟過程にある新分野の先駆者として、世界の注目を集めてきた。今なお進化し続ける映像芸術を牽引し、ビデオの持つ可能性を追求する。

ニューヨーク生まれ。シラキュース大学美術学部で映像や電子音楽を学ぶ。同時に学内にスタジオを設置し、作品制作を開始。1970年代、初めてビデオカメラに触れた時、「天使が舞い降り、将来が拓けた」と感じたという。ビデオ・アートの創始者、ナム・ジュン・パイクらのアシスタントを務め、1972年にはカリフォルニア州でのグループ展に作品《野生の馬》を出品。初めて一般に公開された。

水や火、光など根源的な要素を作品にふんだんに使用するのが特徴。生命の誕生や死、再生、信仰といった宗教的、哲学的なモチーフを主題とする。その原点には、子供のころに湖に落ちて溺れかけ、水と光の美しく不思議な光景を目にした経験があり、「生と死」に関心を深めるきっかけになったという。

1991年、母親の死後に制作した《ザ・パッシング》。白黒の画面と水中の人物を描き、作家個人の心象を表現し、大きな転機となる。「この時初めて、芸術とは何かを明確に意識できるようになった」。翌年からは死や無常の命をテーマとした一連の作品に取り組んだ。

日本との縁も深い。1980年から一年半、ソニーの厚木研究所に招かれ、共同制作者でもある妻のキラ・ペロフさんと共に日本に滞在。先進テクノロジーと日本の伝統文化を学ぶ。出会った禅の師匠でもある画家、田中大圓氏を生涯の師と仰ぐ。「恐れを持たないこと、何事も成就できるのだというインスピレーションなどを教えられた」と思い出を語る。

滞在中には、東北の霊場・恐山や東京・築地など日本の心象風景をとらえた《はつゆめ》を制作。陸に打ち上げられた魚、竹の間から漏れる光、深い闇の映像が印象的で、光と闇の世界に死生観が漂う。その作品をはじめとする長年の活動を系統的に紹介したアジア初の大回顧展『ビル・ヴィオラ:はつゆめ』が、森美術館(2006)と兵庫県立美術館(2007)で開催された。

来春、ロンドンのセント・ポール大聖堂に設置される二つの「ビデオ礼拝所」の制作に追われる毎日だが、東日本大震災に心を痛める。「生と死、喜びと哀しみはつながっている。今は日本にとって哀しみの時。芸術の癒しの力を信じ、多くを失った人たちに祈りを捧げたい」とメッセージを送っている。

 

略歴

  1951  

ニューヨーク生まれ

  1969-73  

シラキュース大学美術学部で学ぶ

  1972  

最初のビデオ作品≪野生の馬≫制作

ナム・ジュン・パイクらの助手を務める

  1976   初来日
  1977  

カッセルのドクメンタ6に≪彼はあなたのために涙を流す≫を出品

  1980  

日米友好基金の奨学金を受け再来日。18か月間滞在し、≪はつゆめ≫を制作

  1995  

ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表、≪埋められた秘密≫を発表

  1997  

ニューヨークのホイットニー美術館企画の回顧展が巡回

  2003   ロサンゼルスのJ.ポール・ゲティ美術館企画『パッション:受難』展が世界を巡回
  2005  

パリ・新オペラ座で『トリスタンとイゾルデ』のためにビデオ作品を発表

  2006  

アジア初の大回顧展『ビル・ヴィオラ:はつゆめ』展が東京・森美術館で開催

フランス政府よりフランス芸術文化勲章