| ロバート・ラウシェンバーグ Robert Rauschenberg |
| 1998, 絵画部門 |
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マンハッタンの舗道に、ロバート・ラウシェンバーグは、画用紙20枚を張り合わせた全長7メートルの細長い紙を敷いた。友人の作曲家ジョン・ケージの運転するA型フォード車が、その上をゆっくり走る。ラウシェンバーグは後輪にインクを塗りながら追いかける。『自動車のタイヤによるプリント』(1953)は、こうしたパフォーマンス的行為によって生み出された。同じ年、もっと奇抜な試みもおこなった。著名な画家から作品をもらい、その絵を消してしまうというのだ。ウィレム・デ・クーニングがそれに応じ、ドローイングを提供した。それを消しゴムで消して発表したのが『消されたデ・クーニングのドローイング』である。芸術の固有性、そして金銭的価値に挑んだものだった。 次から次へと湧くアイディア。ラウシェンバーグは、その創作のエネルギーと幅の広さで際だったアーティストである。ポップ・アートの先駆者として1960年代以降の美術に多大な影響を与えた。 1925年テキサス州ポート・アーサーに生まれた。ミズーリ州のカンザスシティー美術研究所、パリのアカデミー・ジュリアンを経て、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジで抽象画家、ジョセフ・アルバースに学んだ。また故ジョン・ケージや舞踊家マース・カニングハムと親交を深めた。そして一躍注目を集めたのは、オブジェと抽象表現主義風の絵を合体させたコンバイン・ペインティングを発表してからだった。そのはじまりは『コレクション』(1953-54)で、赤や黄で塗られたボードの上に新聞、布、ゴッホの絵の複製などが貼られた作品だ。 彼はその作品をコラージュではなくコンバインと呼び、靴やぼろ布、ときにはタイヤや道路標識まで、街に捨てられていたものを拾い集めては、絵画と同一画面上に取り込んだのである。代表作品のひとつ『ベッド』(1955)は、貧乏だったためにカンヴァスはなく、シーツやベッドカバーを使って描いた。『モノグラム』(1955-59)は、タイヤをベルトとして身につけた剥製のアンゴラ山羊が、絵画の上に立っているものである。また『ファースト・ランディング・ジャンプ』(1961)は自動車のナンバープレートやタイヤを大胆に取り入れた作品で、ニューヨーク近代美術館の重要なコレクションとして人気が高い。 コンバイン・ペインティングで評価をかためた彼は、1958年、ニューヨークの有力画廊であるレオ・カステリ画廊で個展を開いて脚光を浴びた。さらに1962年にはシルクスクリーンにも挑戦し、作品の量産化を試みた。ジョン・F・ケネディや宇宙飛行士をプリントした作品などが有名である。 ラウシェンバーグは、1964年のヴェネツィア・ビエンナーレで最優秀賞を受賞したことにより世界的な画家としての地位を確立した。この年、日本にも来て、旧草月会館で4時間半かけて金屏風にコーラの瓶やダンボール箱を貼り付けた公開制作をおこない、『ゴールド・スタンダード』を完成させた。 また1950年代から60年代はマース・カニングハム舞踏団の衣装デザインを手がけ、即興的なパフォーマンスをおこなうなど幅広く活躍する。他分野の芸術やテクノロジーとの交流に関心が深く、機械化された作品、見る人の存在に作品が反応するようなアサンブラージュもある。芸術がふつう目指す「自己の追求」にそむいて、人々と触れあい、混じりあって、共同制作をおこなう。 近年はコンピューターを使った一見印刷物のような手の跡を残さない作品を主に制作している。自ら撮った写真をコンピューターに取り込み、ポスター状の印刷物を刷り出し、その表面に水をつけ、裏からこすって別の紙に写し取る。こうして縦横2メートルを超える大作が次々とつくられる。 ラウシェンバーグはまた、政治、社会に積極的な関心を寄せ、芸術家を支援し、人々の意識を高めることを目的とした「チェンジ」、「ラウシェンバーグ財団」、「ラウシェンバーグ海外文化交流(ROCI、通称ロッキー)」などの団体を設立した。とくにROCIは、世界の芸術家たちと出会い、共同で制作して展覧会をおこなうことにより、交流を深め、世界平和のために役立てようというもので、1985年のメキシコからはじまり、8年がかりで日本、ロシア、マレーシア、中国、キューバなど12カ国を巡回し、大成功を収めた。 ニューヨークにもスタジオをもつが、現在はもっぱらフロリダの小島、キャプティヴァ島で暮らし、制作している。自宅前には真っ青な海が広がる。20代で頭角を現して以来、常に話題作を発表し続けてきたラウシェンバーグは、今も最前線で世界の現代美術をリードしているのである。 渋沢和彦
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