リチャード・セラ       Richard Serra
1994, 彫刻部門
  リチャード・セラのモニュメントをめぐって、有名なエピソードがある。1981年、ニューヨークのマンハッタンの連邦ビル前広場に、巨大な鉄板をやや弓形にそらせた『傾いた弧』が設置された。ところが、ビルに働く人々のあいだから、景観の邪魔になる、それに、もし倒れでもしたら危険この上ない、と抗議の声が起こり、結局、作品は8年後に取り払われた。設置されていたあいだと撤去後に見た人によれば、もともとさびれかけていた広場が『傾いた弧』の出現によって活性化され、ダイナミックな環境に変貌していたのが、撤去後、もとの眠ったような空間に戻ってしまったという。特定の広場のためにつくられた作品だから、撤去は、その消滅を意味する。しかし、短命に終わった『傾いた弧』は、都市空間についてさまざまな問題を提起してくれた。
 このエピソードが示すように、セラの公共彫刻は建築的なスケールをもち、その造形には人々の不安感をかきたてる要素がある。周囲の環境に対し、しっくりと調和するというよりも、都市生活者に心理的な駆け引きを突きつける。磨かれた石やブロンズの彫刻のもつ美観とは縁遠い。だが、それこそがセラの彫刻の比類ない魅力といっていい。鉄の肌は荒々しく、不逞な力を発散させている。工業用製品にあまり手を加えずに緊張感に満ちた造形に仕立てるミニマリズムの美学は、カール・アンドレやドナルド・ジャッドにも共通するものだ。
 1939年、サンフランシスコに生まれ、カリフォルニア大学とイェール大学で学んだ。1964年から65年までイェール大学の奨学金を得てパリに住んだとき、パリ国立近代美術館内に復元されていたコンスタンティン・ブランクーシのアトリエを訪れて、生活空間と仕事の空間とが区別されておらず完全に融合していることに感銘を受け、この体験は後年、セラの公共彫刻の性格を決定づけた。ローマでの個展で発表した、生きた動物と剥製を檻の中にいれた作品は、イタリアの「アルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)」の先駆けとなった。
 1960年代後半、ニューヨークに定住するようになってからは、ゴム管やネオン管を使ったシリーズや、溶かした鉛を散らせた作品などの制作を続けた。こうした作品群によって、セラはロバート・モリス、エヴァ・ヘッセ、ブルース・ナウマン、ロバート・スミッソンらとともにプロセス・アート、アンチ・フォーム(反形体)運動の中心人物となった。
 セラはカリフォルニアでの学生時代、製鋼所や工事現場でアルバイトに励んだ。セラの作品は、従来の彫刻ではなく、塔、ダム、サイロ、橋、トンネル、摩天楼といった構築物の系譜に連なるものだ。スチールで「場の彫刻(サイト・スペシフィック)」を制作しようと決めて以来、これまでのスタジオから抜け出すことになった。スタジオが都市計画や産業界に入れ替わり、制作の協力者は建築業者、土木技師、運送業者に、そして製鋼所や造船所が「外に繰り出したわがアトリエ」となった。こうした状況のもと、巨大な金属板を重力の均衡で相互に寄りかからせた作品を手がけるようになった。
 「場の彫刻(サイト・スペシフィック)」について、セラはこう記している。
 「その置かれる場所の環境条件と深い関係がある。作品の規模、サイズ、そして置かれる場所は、街のなかか、自然の風景のなかか、建物の内部かによって決められる。作品はサイト(展示場所)の一部となり、その場所の構成要素を概念的にも知覚的にも再構築する。私の作品は、サイトを装飾したり、説明したり描写したりはしない」
 セラの彫刻は美術館の内部に収まりきれるものではなく、公共の場に設置されてこそ、その真価を発揮する。1970年代から80年代にかけて、3部から成る『スピン・アウト:ボブ・スミッソンのために』(1972-73)、パリ、デファンス地区の『スラット』(1980-84)、はじめはパリのチュイルリー公園に設置された『クララ─クララ』(1983)など、「場の彫刻」のスケールは、しだいに巨大化していった。
 『スラット』は、4枚の鉄板を長方形に組み上げただけのものだが、この地区に林立する多彩なモニュメントのなかでも、とりわけ異彩を放っている。ヨーロッパには、ほかにも18本の石柱から成るアイスランド、ヴィデイ島の壮大なモニュメント『アファンガー』(1990)をはじめ、ロンドン、バルセロナ、ベルリン、ハンブルグ、バーゼルなどの諸都市に大作が設置されている反面、『傾いた弧』が撤去されてしまった故国アメリカでは、セントルイスとダラスの作品を数えるくらいなのが皮肉である。
 1970年の春、第10回東京ビエンナーレに招待されて初めて来日、上野公園に杉の木を植え、公園の地面に大きな鉄の輪を埋め込んだ。その「場の彫刻」は日本の若い作家たちにも多大な影響を与えた。またセラにとって京都の禅寺の庭園をつぶさに研究したことは、「場の彫刻」の概念を啓発するところ大であったに違いない。

松村寿雄