アントニー・タピエス

Antoni Tàpies

プロフィール

  油絵具にワラや砂、大理石の粉などを混ぜて、キャンバスに厚く壁のように塗りこめていく。素材の質感はカタロニアの風土を思わせ、鮮烈な色彩がスペインの血を思わせる。カタロニアの熱い風土が生んだ画家といえる。
  1923年バルセロナに生まれ、父を継ぐべく法律を学ぶが、画家を志望してスペイン市民戦争のさなか絵画を独修する。1950年の初の個展で奨学金を得てパリに滞在。52年を皮切りにヴェネツィア・ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレなど国際展への出品と受賞が相次ぎ、アンフォルメル(非定形絵画)運動の旗手として60年代には早くも国際的な名声を得る。
  タピエスの触覚的ともいえる「壁面」には記号、数字、名、亀裂のようなものが描かれ、椅子など物体が貼り付けられて人々を驚かせる。
  日本文化にも精通しており、禅、俳句、書道の本を愛読し、座右の書は岡倉天心の「茶の本」であり、「精神と物質をわけず、宇宙的な広がりを捉える見方が私の考え方と一致します」という。滝口修三と詩画集「物質のまなざし」(1975)もつくっている。96年に大作を集めた回顧展が日本全国を巡回した。

詳しく

  アントニー・タピエスは、ガウディ、ミロ、ダリと同じく、スペイン、カタロニア地方の風土が生んだ画家である。タピエスという名は、カタロニア語で土壁を指すという。タピエスの絵画も壁に酷似している。1950年代から「壁」を描き続けてきた。油絵具にワラや砂や土や大理石の粉を混ぜ、カンヴァスに厚く塗り込めていく。その触覚的な「壁面」には引っ掻き傷がつけられ、十字記号や象形文字、数字や言葉が描き込まれ、物体が張り付けられる。灰色や褐色が主調の地に点じられる赤が、スペインの血を思わせて鮮烈だ。十字記号は聖なるイメージを表し、Xは抵抗の象徴だという。タピエスは少年期にスペイン市民戦争を体験している。カタロニア地方は、1975年まで続いたフランコ政権下で苦難をなめた。「壁」は、封じ込められた少年期の傷痕でもあろうし、精神と物質との格闘の跡でもあろう。

  1923年バルセロナの生まれで、弁護士の父を継ぐべくバルセロナ大学で法律を学んだが、画家志望を捨てきれず、スペイン市民戦争のさなか、病気に苦しみながら絵画を独修した。25歳のころから反ファシズム運動に挺身し、シュルレアリスムの作家、詩人らのグループ「ダウ・アル・セット(サイコロの7つの目)」に参加した。
  1950年、最初の個展で奨学金を得て、パリに滞在したのを機に、シュルレアリスムに強く惹かれ、サルトルの著書やジャン・フォートリエ、ジャン・デュビュッフェらの影響下に、実存主義的な芸術観を抱くようになった。1952年を皮切りに、ヴェネツィア・ビエンナーレやサンパウロ・ビエンナーレなどの国際展への出品と受賞が相次ぎ、1960年にニューヨーク近代美術館とグッゲンハイム美術館で開かれたスペインの現代美術の新しい傾向を紹介する展覧会にも選ばれ、アンフォルメル(非定形絵画)の若き旗手と目されるにいたった。
  日本との関係は深く、1960年、東京国際版画ビエンナーレで受賞したのをはじめ、1976年と1996年に個展も開催され、全国に巡回した。詩人の故・瀧口修造と詩画集『物質のまなざし』(1975)を共作している。バルセロナの中心街にあるアトリエの壁には、ピカソやミロの作品に混じって、仏像や掛け軸、能面も掛けられていて、座右の書は岡倉天心の『茶の本』だという。禅、俳句の本も愛読する。
  「カタロニアはフェニキア、ローマなど多くの文明の通り道で、それらの文明から影響を受けてきた。アラビアを経て東洋の文明も伝えられた。ヨーロッパ中の文化を融合させる一方で、新しい文化の導入にも努めてきた。私も日本の文化について若いころから親しんできた。物質と精神を分けずに、宇宙的なひとつのものとしてとらえるところに共感する」という。
  触覚さえ喚起するタピエスの絵画の物質性への固執には、西洋文明の行き詰まりを打破しようとする原始的なまでの血のたぎりが感じられるが、これも異文化を積極的に摂取するカタロニア精神に根差しているといえるだろう。
  タピエスは1970年代、麦ワラの山に覆われた机、衣服のはみ出した椅子や壊れたタンスなど、廃品となった家具を使って立体作品の制作をはじめた。1993年の第45回ヴェネツィア・ビエンナーレのスペイン館では、インスタレーションを発表していた。病院で使うような簡素なベッドに使用済みの布団や毛布が配される。死のメタファーであろうか、そこに横たわっていた人の不在をまざまざと思わせる。静寂があたりを覆う。この鮮烈な演出で国際金獅子賞を受賞した。
  1990年、スペイン王室からアストリア・プリンス芸術賞を贈られ、またバルセロナ市から寄贈された由緒ある建物を本拠に、若手芸術家を支援するタピエス財団が発足した。建物の屋上には、アルミニウムのチューブにステンレスの針金がからむ『雲に浮かぶ椅子』(1990)が奔放なイメージを描き出す。内部の美術館にはタピエスの絵画や彫刻が年代順に並ぶほか、他の重要な作家の作品も展示されており、タピエスが収集した図書や資料を収める研究図書館も併設された。1992年に開催されたバルセロナ・オリンピックの公式ポスターも手がけている。1996年、大作を集めた回顧展が日本全国を巡回した。

 

 

                                                 松村寿雄

 

2012年2月6日、スペイン、バルセロナにて逝去

 

略歴

  1923
12月13日、スペイン、バルセロナに生まれる。 内戦のバルセロナに住み、独学で絵を描き続ける。ロマン主義や現代音楽、文学に造詣を深める
  1944 バルセロナ大学で法律を学ぶが、画業に専念するため46年に退学
  1945 厚塗りや奇妙な素材、土などの混合物によるコラージュ制作を試みる
  1949  超現実主義に関する一連の絵画を制作。東洋の芸術、哲学に関心を持つ
  1950 バルセロナで初個展。フランス政府から奨学金を得てパリに行き、51年、ピカソをたずねる
  1952 第26回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品
  1953 初めてニューヨークを訪れる。マーサ・ジャクソン・ギャラリーで個展。サンパウロ・ビエンナーレでグランプリ受賞
  1954 第27回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。マドリード、シカゴで個展
  1955 パリで個展。アンフォルメルの一翼をになう。講演では創造的自由と非合理な衝動の行使を擁護し、“公認されたアカデミックな形式”を排撃する。東洋の精神的修行、バラモン、ヨガ、道教、禅の研究に熱中
  1958 第29回ヴェネツィア・ビエンナーレでユネスコ賞受賞
  1960 ニューヨーク近代美術館の「新しいスペイン絵画と彫刻展」、グッゲンハイム美術館の「ピカソ以前・ミロ以後展」に出品
  1962 ハノーヴァーのケストナー協会で初の回顧展。ニューヨーク、グッゲンハイム美術館でアメリカにおける初回顧展
  1966 反フランコ政権の活動に積極的に参加
  1970 サンクト・ガレン新劇場の壁画制作を委託される。エッセイ集「芸術の実践」編集
  1973
パリ市近代美術館で回顧展
  1974 「反美学の美術」出版
  1976 東京、西武美術館で「タピエス展」
  1981 ピカソ記念碑をバルセロナ市議会より委託される(83年完成)。東京、デュッセルドルフ、サンフランシスコ、マドリッド、大阪などで個展
  1984 タピエス目録出版。アントニー・タピエス財団創立
  1990 高松宮殿下記念世界文化賞・絵画部門受賞
  1992 英王立芸術アカデミー名誉会員
  1993 第45回ヴェネツィア・ビエンナーレにおけるインスタレーションで金獅子賞、ユネスコから「ピカソ・メダル」を受ける
  1995 ニューヨーク、グッゲンハイム美術館で回顧展
  1996 日本で巡回回顧展
  2012 2月6日、スペイン、バルセロナにて逝去
  主な作品

1950  呪われた者と選ばれた者の理髪店
1952  政治的な考古学
1957  白い楕円
1960  茶、黒と赤
1961  大きな側面のX
1963  二つの菱形と黒
1971  赤い帯
1973  大地と青空
1974  何をなすべきか
1989  二つの十字架