レナード・バーンスタイン

Leonard Bernstein

プロフィール

  指揮者、作曲家、ピアニスト、教育家として、クラシック界のみならずミュージカルでも「ウエストサイド物語」(1957)など不朽の名作を残し、幅広い活躍をしてきた音楽家である。
1918年、アメリカ、マサチューセッツ州ローレンス生まれ。大指揮者のクーセヴィツキーが創立した、ボストン郊外の避暑地で開かれるタングルウッド音楽祭に学んだことが、晩年、若い芸術家の育成に最も力を入れることにつながる。90年に札幌市で開かれた、日本初の国際教育音楽祭「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」は彼の提唱で開かれた。このフェスティバルのオープニングで「私の残された時間は教育に捧げる」とスピーチした。
ニューヨーク・フィルハーモニックへのデビューはアメリカン・ドリームとして今も語り伝えられている。43年、インフルエンザにかかったブルーノ・ワルターの代演でカーネギーホールの舞台に立った彼は、見事な指揮で大成功をおさめた。ニューヨーク・タイムズは「素晴らしい天分に恵まれていたからこそ、チャンスを生かせたのだ」と書いた。89年、ベルリンの壁崩壊記念コンサートで、各国混成のオーケストラを編成し、ベートーベンの「交響曲第9番」を指揮して世界中に感動を巻き起こした。1990年死去。

詳しく

  アメリカが生んだ世界的な指揮者で作曲家のレナード・バーンスタインは第2回世界文化賞授賞式の直前、1990年10月14日に72年の生涯を終えた。我々は、レニーの愛称で親しまれた気さくな人柄を記憶し、『ウエスト・サイド物語』の音楽を耳に残し、情熱的で大きな身ぶりと表情豊かな指揮をいつまでもまぶたに焼き付けている。

バーンスタインは1918年、マサチューセッツ州ローレンスに生まれた。父の勧めでハーバード大学に進んだが、音楽の道への情熱は断ち難くカーティス音楽院に入学、フリッツ・ライナーらに指揮を学んだ。その後、クーセヴィツキーの助手になる。
1943年、ニューヨーク・フィルハーモニックで劇的なデビューを飾る。巨匠ブルーノ・ワルターが急病のため25歳のバーンスタインが代役として、カーネギーホールで『ドン・キホーテ』などを指揮。このコンサートは全米に放送され、大成功を収めた。1958年にニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。69年に初代名誉指揮者の称号を授与されて、その任を離れた。
古典から現代曲までレパートリーは広い。とくにあまり演奏されていなかったマーラーには60年代から取り組んだ。同じユダヤ人だから、作品の解釈を超え、聴き手を虜にしてしまう演奏だった。バーンスタイン自身の作曲作品『エレミア交響曲』(1941-42)、『カディッシュ交響曲』(1961-63)、『ミサ曲』(1971)なども彼のこうした面を代表するものである。
クラシック音楽になじみがない人でも『ウエスト・サイド物語』は聴いたことがあるだろう。作曲家としてのバーンスタインは数多くのミュージカルで親しまれた。『ロミオとジュリエット』を都会に住む不良グループの物語に翻案した『ウエスト・サイド物語』は1957年に作曲されて大ヒット。ジャズやマンボなども使われた親しみやすいこの作品は、世界中で上演された。あまりにも有名になったため、そのオリジナリティは見逃されがちだが、豊かな旋律にあふれ、アメリカのミュージカルのあらゆる要素を組み合わせたこの作品はきわめて独創的だ。
このほかにミュージカル『ワンダフル・タウン』(1953)、『1600ペンシルヴァニア・アヴェニュー』(1976)、オペレッタ『キャンディード』(1956)など、大衆に親しまれたポピュラーな作品がある。
バーンスタインの活動で忘れられないシーンのひとつが、ベルリンの壁が崩壊した1989年の12月の祝賀コンサート「自由への讃歌」だ。東ベルリンのシャウシュピールハウスに東西の音楽家が集い、ベートーヴェンの『交響曲第9番』(シラー詩)を指揮した。全世界に放映され、感動の嵐を巻き起こし、まさに詩の言葉どおり「全人類が同胞」になった。また、原爆が投下されて40年を経た1985年8月6日、広島平和コンサートを無報酬で指揮してもいる。常に音楽で社会的発言を続けた音楽家だった。
バーンスタインはショーマンシップにあふれ、教育家としても大きな貢献をした。その面目躍如たるものはニューヨーク・フィルを使った音楽入門のテレビ番組「青少年のコンサート」だろう。音楽をやさしく誰にも分かりやすく解説するバーンスタインの語り口は一級のエンターテイナーでもあった。「誰でも音楽を潜在的に愛している。しかし、そのためには良い音楽に接する機会がなければならない。そこに教育の介在する基盤がある」と話していた。
日本との縁も深い。ブザンソン国際指揮者コンクール(フランス)で優勝した25歳の小澤征爾をニューヨーク・フィルの副指揮者に招くなど、彼の薫陶を受けた音楽家は多い。1990年6月には、札幌で「パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)」が開かれた。この国際音楽祭は未来の音楽家を育てるためにバーンスタインが提唱、オーディションを経て世界から119人の若者が集いレッスンに励んだ。しかし、彼は東京公演の一部をキャンセルしてしまう。翌月、マサチューセッツ州で開かれたタングルウッド音楽祭で、ブリテンの『4つの海の間奏曲』を指揮している際に咳込み、指揮台の背もたれに寄りかかってしまった。そして10月、引退を発表。この年、第2回世界文化賞の受賞が決まった際には「賞金は芸術と文化の向上に役立てたい。若い芸術家の育成が念願だ」と語っていた。
死後、バーンスタイン音楽教育財団が設立され、PMFは毎年開かれている。さまざまな顔をもっていた音楽家バーンスタインが残した遺産は大きい。

江原和雄

略歴

  1918
8月25日、マサチューセッツ州ローレンスに生まれる。少年時代からピアノのレッスンを受ける
  1939 ハーバード大学卒業。同大学ではウォルター・ピストン、エドワード・バーリンガム・ヒル、ティルマン・メリットに学ぶ。カーティス音楽院でイザベラ・ヴェンジェロヴァにピアノを、フリッツ・ライナーに指揮を、ランドール・トンプソンに作曲を学ぶ(-41)
  1940 タングルウッドでセルゲイ・クーセヴィッキーの助手をつとめる
  1943 ニューヨーク・フィルハーモニーのアシスタント・コンダクターに就任(-44)。11月13日、急病のブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニーをカーネギー・ホールで指揮、大成功をおさめる。世界各地のオーケストラから客演指揮者として招かれる
  1944 交響曲第1番「エレミア」
  1945-47 ニューヨーク市交響楽団音楽監督
  1949 第2作目の交響曲「不安の時代」をクーセヴィツキー指揮、バーンスタイン自身のピアノで演奏
  1951 ブランダイス大学指揮学部長(-56)。クーセヴィツキーの死後、タングルウッドのオーケストラおよび指揮学部を受け継ぎ夏期講習を開催
  1953 ミラノのスカラ座歌劇場に招待され、マリア・カラス主演の「メディア」(ケルビーニ作曲)をアメリカ人として初めて指揮する
  1957 「ウェストサイド物語」
  1958 ニューヨーク・フィルハーモニーの音楽監督に就任(-69)。「ヤング・ピープルズ・コンサート」開始(-72)
  1959 著作「音楽の喜び」
  1963 ボストン交響楽団、クーセヴィツキー財団の依頼で3番目の交響曲「カディッシュ」を作曲。これはジョン・F・ケネディーに捧げられた
  1966 著作「音楽の限りない多様性」
  1976 アメリカ建国200年祭の海外演奏旅行を行う
  1982 著作「発見(Findings)」
  1987 ロンドン交響楽団名誉団長就任
  1989 ナチのポーランド侵略50年にあたり、ワルシャワでコンサートを行う
  1990 高松宮殿下記念世界文化賞・音楽部門受賞。10月14日逝去
  主な作品 1944 バレエ「ファンシー・フリー」
ミュージカル「オン・ザ・タウン」
1946 バレエ「ファクシミリ」
1951 オペラ「トラブル・イン・タヒチ」
1953 ミュージカル「ワンダフル・タウン」
1954 アカデミー賞受賞「波止場」の映画音楽作曲
ミュージカル「ピーターパン」
1955 ミュージカル「ひばり」
1956 ミュージカル「キャンディード」
1957 ミュージカル「ウエストサイド物語」
1971 歌手、俳優、ダンサーのための劇場用作品「ミサ」
1974 コーラス、ボーイソプラノ、オーケストラのための「チチェスター賛歌」
1977 オーケストラのための序曲「スラヴァ」
6人の歌手とオーケストラのためのアメリカ詩の連作「ソングフェスト」
1983 オペラ「ア・クアイエット・プレイス」
1988 歌手と打楽器のための「ミサ・プレヴィス」
1989 2台のピアノと2人の歌手のための「アリアとバルカロール」
オーケストラのための協奏曲「ジュビリー・ゲームズ」