ソフィア・グバイドゥーリナ

Sofia Gubaidulina

プロフィール

  ロシアの新しい波を代表する女性作曲家。民族楽器を用いて新しい音を引き出すなど、古今東西の様式を融合させた音楽は“響の雲”と称され、深い精神性で注目をあびている。
1931年、タタール共和国(旧ソ連)のチストポリ生まれ。モンゴル系タタール人の父、ポーランドとユダヤ系ロシア人の母という家庭に育ち、幼少から宗教的なものに強い関心をもつ。5歳で初めてピアノの音を聴き、「音楽は世界の共通言語」と体感。以来、音楽一筋の人生を歩むことになる。モスクワ音楽院で作曲を学んだが、その自由な表現に対し、師ショスタコーヴィチから「あなたが(当局のいう)間違った道を進むことを望む」と励まされた挿話は有名である。卒業後は映画音楽の仕事の一方、作曲、即興演奏活動に入った。
85年頃からバイオリニストのギドン・クレーメルらが精力的に彼女の音楽を演奏。西側で高く評価され、多くの賞に輝いた。しかし、ロストロポーヴィチやシュニトケと同様、旧ソ連では多くの困難を味わい、92年、ドイツのハンブルグに移住した。
日本の琴を学び、琴とオーケストラのための作品「イン・ザ・シャドー・オブ・ザ・トゥリー」を99年、東京で初演した。

詳しく

  音楽史に登場する女性作曲家は本当に少ない。時代は進み、男の仕事だった作曲も20世紀後半にはだいぶ様相が変化した。しかし、現在も評価される女性作曲家は少なく、ソフィア・グバイドゥーリナの存在は希有である。会うと、シャイで控え目なこの女性のどこにこれほどの創作エネルギーが隠されているのかと思う。

グバイドゥーリナが旧ソ連の出身ということを知るとその驚きは増す。旧ソ連時代には西側に知られることはほとんどなく、評価を受けるようになったのは1985年、西側への旅行を許されるようになってからだ。日本では1990年、東京のサントリーホールでオーケストラ作品が演奏されて本格的に紹介された。
彼女は1931年、タタール共和国(旧ソ連)で生まれ、カザン音楽院、モスクワ音楽院で学んだ。「イデオロギーの前では男も女もなかった」という。旧ソ連の体制がグバイドゥーリナを育てたのは歴史の皮肉ともいえようか。それでも、共産政権と苦渋の妥協をしながら作曲活動を続けたショスタコーヴィチの例を引くまでもなく、旧ソ連での活動は多くの困難を伴った。西欧の前衛音楽は認められず、保守的な作品しか評価の対象にならなかった。1958年、卒業審査を受けもったショスタコーヴィチに「あなたが(当局のいう)間違った道を歩むことを望む」と励まされ、グバイドゥーリナは自らのヴィジョンを追究する決意をかためたという。
難さを象徴する活動が、友人の作曲家ヴィクトール・ススリンらと結成した民族楽器の即興演奏グループ「アストレイヤ」。彼らの楽譜が出版される見込みはないが、即興ならば当局の検閲をかいくぐることができる。ススリンは「閉じ込められた猫が出口を探す」ような活動と表現している。このグループはロシア、コーカサス、中央アジアなどの珍しい民族楽器を使い、前衛と大衆の音楽様式を融合させた。「アストレイヤ」でおこなった作業は、以後の彼女の音楽の大きな基盤となった。
グバイドゥーリナは「私は音楽を構築するというよりは、木が何度も枝を伸ばし葉や新芽を出すように音楽を耕す」と語る。「喜びと閃きは最初、色、動き、衝突に満ちたコードの垂直的サウンドのようだが、やがては完全に混じり合い雑然となる。私の仕事はその垂直のサウンドを水平のラインに仕立てることだ。垂直/水平のふたつのラインの交差、このことを考えて私は作曲する」。
現在、ドイツのハンブルク近郊に住むが、彼女はあくまでロシア人だという。共産主義体制が崩壊し、混乱の極みにあったロシアを脱出したのは、「パンを買うのに朝6時に起きて3時間並び、牛乳を買うのにさらに3時間。それでも手に入るかどうかわからない。私は現実から目をそらし、国を捨てたのではなく、ロシアの知性、文化を守るためにハンブルクで作曲する」と語っている。
タタール人の父親、スラブ人の母親のもとに生まれ、東西の「文化的衝突を肌で感じながら」育った。そして、33歳のとき、偶然に見たイコンから神の存在を確信し、ひそかにロシア正教に入信したという。彼女の作品の背景にはこのふたつが存在する。
音楽は宗教的な美しさと民族的な響きをもち、伝統的なクラシック音楽のように、きっちりとした構成感を感じさせない。宗教や人間の行為をシンボライズする特殊な楽器の組み合わせの作品が多い。チェロとオルガンのための『イン・クローチェ』(1979)、『綱の上の踊り手』(1993)はヴァイオリンとピアノの内部奏法が使われ、『シレンツィオ(静寂)』(1991)はヴァイオリン、チェロとバヤーン(ロシアの民族楽器でアコーディオンの一種)の曲で、内省的な音を20分以上も鳴らすバヤーンが印象的。『アレルヤ』(1990)はひとつの歌詞がさまざまにかたちを変えて30分以上響く。彼女は自分の音楽を「響きの雲」と称した。 1999年にはNHK交響楽団が委嘱した箏協奏曲『イン・ザ・シャドー・オブ・ザ・トゥリー』、そしてニューヨーク・フィルが委嘱した2台のヴィオラのための協奏曲が初演される。日本の17絃、琴、中国琴の3丁を使う箏協奏曲は4月、沢井一恵のソロ、シャルル・デュトワの指揮で、東京で世界初演されたあと、アメリカ・ツアーをおこなう。ニューヨークでは同じ日、やはりニューヨーク・フィルがヴィオラ協奏曲を公演、日米のオーケストラが競う。グバイドゥーリナの時代がはじまったようだ。

江原和雄

略歴


1931 10月24日、旧ソ連タタール共和国のチストーポリに生まれる

1946-49 カザン音楽学校でピアノを学ぶ

1949-54 カザン音楽院でコーガンにピアノを師事、またレーマンに作曲を学ぶ

1954-59 モスクワ音楽院でショスタコーヴィチのアシスタント、ニコライ・イヴァノヴィチ・ペイコの指導を受ける

1963-67 ドキュメンタリー・フィルム・スタジオの作曲家をつとめる

1964-69 オデッサのアート・フィルム・スタジオの作曲家をつとめる

1968- アニメーションの作曲を手掛ける

1968- モスクワのエレクトロニック・ミュージック・スタジオで働く

1970- モスクワ・ソヴィエト・シアターの作曲家となる

1974 ローマ国際作曲家コンクールで受賞

1980 ベルリンのフェスティバルで 「オフェルトリウム」 が演奏される

1985 初めて西側へ旅行を許される

1989 クーセヴィッキー国際録音賞が 「オフェルトリウム」 のCDに対して贈られる。大阪、東京で彼女の曲だけで構成する演奏会開催のため初来日

1990 バヤン(アコーディオン)、チェロ、弦楽オーケストラのための 「七つの言葉」、「オフェルトリウム」 など主要作品が高橋悠治の指揮で演奏される

1991 ベルリン芸術週間でサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルによって 「アレルヤ」 が初演される。ハイデルベルク女性芸術家賞、フランコ・アビアート賞

1992 ロシアを去り、ドイツに移住、ハンブルク近郊に居を定める
八ヶ岳高原音楽会でバイオリンとチェロのためのソナタ 「喜び」、アコーディオン 「深き淵より」 が演奏される

1994 クーセヴィッキー国際録音賞 (交響曲「声・沈黙」)

1995 日本でグバイドゥーリナ・フェスティバル開催、「チェロ・ソロのための十の前奏曲」、「イン・クローチェ」、「リジョイス」 が演奏される

1996 オーケストラ作品が日本で紹介される

1998 高松宮殿下記念世界文化賞・音楽部門受賞

2000 NHK交響楽団の依嘱作品、琴のための協奏曲 「イン・ザ・シャドウ・オブ・ザ・ツリー」 が初演される

主な作品 1957    「ピアノ5重奏曲」
1958    「シンフォニー」
1959    「ピアノ協奏曲」
1961    室内楽 「インテルメッツォ」
1962    ピアノ曲 「シャコンヌ」
1965    「ピアノソナタ」
1965    ハープ、コントラバス、打楽器のための 「5つのエチュード」
1968    カンタータ 「メンフィスの夜」
1969    カンタータ 「ルバイヤート」
1969-70 シンセサイザーとテープのための
「生きているもの - 生きていないもの」
1977    ハープシコードと打楽器のための音楽
1979    チェロとオルガンのための 「イン・クローチェ」
1981    「オフェルトリウム(奉献唱)」
1982    「チェロ・バヤン・弦楽合奏のための最後の7つの言葉」
1986    「声・沈黙」 (12楽章の交響曲)
1987    弦楽八重奏曲 「T.S.エリオットへのオマージュ」
1989    「プロ・エ・コントラ」 (オーケストラ)
「問われぬ答え」 (3つのオーケストラ)
1991    「時間の本より」 (リルケの詩による、チェロ、オーケストラ、
男声合唱、語り手のための曲)
1994    「弦楽4重奏曲第4番」
「タイトロープの上のダンサー」
1997    「ヴィオラ協奏曲」
「太陽の歌」 (合唱、チェロ、二つの打楽器のための)
1998    「二つの道」 (二つのヴィオラとオーケストラ)
2000    「イン・ザ・シャドウ・オブ・ザ・ツリー」 (琴のための協奏曲)