エルズワース・ケリー

Ellsworth Kelly

プロフィール

  赤、黄、青など鮮やかな単色のパネルの組み合わせ。しばしば変形キャンバスを用いて、それを鋭角的に配置する表現。色彩を区切る鋭い縁取りの線から「ハード・エッジ派」と言われる。
1923年、ニューヨーク州ニューバーグ生まれ。ボストン美術館付属学校で学んだあと、パリに留学、絵画だけでなくロマネスク建築やビザンチン様式のイコンなどに強い関心を持ち、大きな影響を受ける。帰国した54年ころのアメリカ美術界は抽象表現主義が隆盛を極めていたが、ケリーはそれとは一定の距離を置いていた。アクション・ペインティングなど激しい抽象表現主義に対し、ケリーはより内省的、瞑想的な姿勢を通した。余分な要素をそぎ落とした作品群には、鑑賞者の内面に訴える強いメッセージ性がある。壁画、彫刻、版画など、様々な手法を試みるが、その表現方法は一貫して変わらない。パリのユネスコ本部の壁画や東京フォーラムの壁面パネルなども手がけている。「鑑賞者は作者のことを想起しないで純粋に作品だけを見てほしい」と語る。

詳しく

  かたちは線。線は光。光は色。色はかたち。シンプルなかたちに、全体に及ぶ色。かたち、線、光、色と、単純な要素を明快に実践するケリーは、それだけで特異な存在だ。
ケリーも含まれている1959年のニューヨーク近代美術館の新人アーティストたちの展覧会カタログと、最近のケリーの仕事を見比べてみると、作品のスタイルがほとんど変わっていない。
青春期から壮年まで、40年以上の期間、首尾一貫した作品のポリシーは、評価に値すると同時に、驚くべきことである。変わっていない。
単純な形態と色が、第一。首尾一貫して40年以上も変わりがないが、第二。しかし第三があろうとは、ぼくも長い間気が付かなかった。第三とは、区切られたスペースいっぱいの図形の示し方、である。
世界文化賞受賞の際に、初来日して話したときに、初めて分かった。その第三が、ケリーにとって重要かもしれない、とそのとき思った。
設置状態をまだ作家が未確認だったので、東京国際フォーラムの近年のケリーの、代表作を案内した。「赤と黒」という題の、変形パネルの巨大な作品だった。階段を上がっていって、五階から十一階ぶちぬきのアトリウムの壁面に設置された。皇居がわから見て、大窓から「赤と黒」が見える。屋内の一番目立つ場所にケリーのパネル作品が設置されているのだ。
場所はよかったが、壁面はグレーの石で、しかも縦横に深い溝が入れてあった。水平と垂直を限る装飾的な目地である。作品を置くには、その強い目地の溝と戦わなくてはならない。ケリーはそのことに難色を示してもおかしくない、と思った。
ところが、ケリーはその目地の溝が気に入ったのである。第三の、区切られたスペースいっぱいの図形の示し方、にその目地はピッタリだったのである。
ケリーがぼくに話してきかせたのは、子供のころ、クリームチーズのかたまりのようなものが、戸口に届けられた。それを片っ端から踏みつけて、フラットに伸ばしてしまった。フラットなオブジェを体験した最初の記憶だという。
ケリーの作品は、ギャラリーを区切られたスペースと見なした場合、働きかけるような、図形をいっぱいに示したものばかりである。カタログの図録では分かりにくいのだが、弧もあるその多角形は、箱の中のシンプルな品物のようではない。余白は品物を包む包装のようではなく、周囲に働きかけている。
箱の中の品より大きく、空間の雰囲気をガラリと変えてしまうものなのである。 たてよこに区切られた空間の、多角形の大きさの違いの微妙さ、その微妙さに気づくと、ケリーの作品が倍、楽しくなる。 エルズワースという変わった名前も、ひじまでの長さを表す単位のことだということを知ったことも驚きだった。クリームチーズのかたまりを、タイルの四角い単位いっぱいにフラットに踏み伸ばしているエルズワース少年が思い浮かんだ。 どうしても言っておかなければならないことがある。それはケリーの色彩のことである。それはポップアートにも通じる深みのないアメリカ的な色彩、ということになっている。だが果たしてそうなのか。アメリカで見るからアメリカ的、ではないのか。 現に、隣り合った色彩同士の微妙さを、ぼくはケリーの作品から教わった。テキサスのフォートワース美術館で見たケリーの、マティスに影響を受けた素描展は、今にして思えば重要な展覧会だった。ケリーは自宅近辺の自然の中の人工物ないし影の写真を撮り続けている。若いころ、フランスで教育を受け、フランスで美術教師をしている。 73年、ニューヨーク近代美術館、96年にニューヨーク、アップタウンのグッゲンハイム美術館で回顧展を開いている。

篠田達美

略歴

  1923 5月31日、ニューヨーク州ニューバーグに生まれる
  1923-40 ニュージャージー州で幼少期を過ごす
祖母の影響でバードウォッチングに興味を持つ
  1941-43 ブルックリンのプラット・インスティテュートで学ぶ
  1943-45 兵役に付き、ヨーロッパへ渡る
  1948-54 パリに渡り、エコール・デ・ボザールで学ぶ
  1949 植物画を描き始める
ピカソのコラージュ「パイプを持った学生」(1913-14)に魅了され、後にコラージュはケリーの仕事の中でも重要なものとなる
マース・カニンガムやジョン・ケージと出会う
  1950 アルプ、ピカビア、ブランクーシなどのヨーロッパ作家を訪ねる
  1951 アルノー画廊で初個展
南仏サナリーで制作活動
多数の単色パネルから成る最初の作品「Colors for a large wall」を制作
  1952 サナリーを発ち、ジヴェルニーのモネのアトリエを訪れる
ジャコメッティやカルダーと出会う
  1954 ニューヨークにアトリエをかまえる
ケージからロバート・ラウシェンバーグに紹介される
  1956 ベティ・パーソンズ画廊でアメリカにおける初個展開催
(以後57、59、61、63年)
  1957 ホイットニー美術館の 「ヤングアメリカ1957」 展に出展
  1958 カーネギー・インスティテュートのピッツバーグ国際展に出展
(以後61年、64年)
  1959 ニューヨーク近代美術館の 「アメリカ16人」 展に選ばれる
  1963 ワシントン近代美術館ギャラリーで回顧展
  1964 第3回ドクメンタ (ドイツ、カッセル)に出展
26点の色の抽象形態と28点の植物ドローイングのリトグラフを初めて制作
  1965 ニューヨーク、シドニー・ジャニス画廊での初個展
(以後71年まで定期的に開催)
  1966 第33回ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表にロイ・リキテンスタインらと共に選ばれる
  1969 メトロポリタン美術館の 「ニューヨーク絵画と彫刻:1940~70」 展に植物
ドローイング30点を出展
パリのユネスコ本部から壁画制作を依頼される
  1970 二ューヨーク州、チャタムにアトリエを移す
異なるサイズのカンヴァスを組み合わせるなどの試みを行う
  1972 バッファロー、アルブライト・ノックス美術館で回顧展
  1973 ニューヨーク近代美術館で回顧展
レオ・カステリ画廊で個展 (以後、92年まで定期的に開催)
  1978 ガウディの建築を見にバルセロナへ旅行
  1979 メトロポリタン美術館で絵画と彫刻の近作展
アムステルダムのステデリック美術館で大回顧展
  1982 ホイットニー美術館で彫刻展
  1984 ワシントン・ナショナルギャラリーがケリーの部屋を設ける
  1986-88 ロサンゼルス現代美術館の開館に際し、ケリーの部屋が設けられる
  1987 デトロイト美術館で版画回顧展、後にアメリカ国内を巡回
  1989 ダラス、シンフォニー・ホールにカラー・パネルの大作を設置
  1991 ホイットニー美術館の 「1991年ビエンナーレ」 展に出品
  1992 ジュー・ド・ポーム・ナショナル・ギャラリー (パリ)で個展
ドクメンタに出展
  1996 ニューヨク、グッゲンハイム美術館で大回顧展
  2000 高松宮殿下記念世界文化賞・絵画部門受賞
  2015 12月27日、ニューヨークにて逝去
  主な作品

1949  「植物Ⅱ」 (油彩)

「窓、パリの近代美術館」 (レリーフ)

1956  「大西洋」 (油彩、画布2枚組) ホイットニー美術館

1957  「大壁面のための彫刻」 ニューヨーク近代美術館

1968  「納屋の戸」 (写真)

1976  「カーブⅧ」 (油彩) ワシントン・ナショナルギャラリー

「コンコルドⅣ」(油彩)

1979  「大きな壁面のための色彩パネル」
シンシナティ・セントラルトラスト社

1985  「ブルックリン・ブリッジ」 (コラージュ、ポストカード)

1986  「無題」 (コラージュ)