オスカー・ピーターソン

Oscar Peterson

プロフィール

  オスカー・ピーターソンは、20世紀が生んだ芸術、ジャズの巨人の一人で、卓越した演奏技法と芸術性をたたえられるピアニストである。
  1925年、カナダのモントリオールに生まれた。父や姉からピアノの手ほどきを受け、早くから才能を発揮し、モントリオールで活動をはじめた。1949年、アメリカのプロデューサー、ノーマン・グランツに見い出され、彼のジャズ楽団JATP(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)に加わり、カーネギー・ホールでデビュー、アメリカの聴衆・批評家を驚嘆させた。1947年にカナダで最初のピアノ・トリオを結成して以来、半世紀を越える活動で、スィングとバップを融合させた独自のスタイルを確立、また、ディジー・ガレスピーら多くのジャズの巨人たちと共演するなど、モダン・ジャズの歴史にその名を刻んだ。
  作品アルバムは約250枚、グラミー賞を7回獲得した。作曲家としても、「カナダ組曲」、「自由の讃歌」、「アフリカ組曲」、98年カルガリー冬季オリンピックの開会式の音楽など300曲あまりを作曲している。93年に脳溢血で倒れ、療養のため一線を退いたが、1996年にはコンサートに復帰した。

詳しく

  オスカー・ピーターソンは1925年、カナダのモントリオール市で生まれた。両親はウエスト・インディで、母親はリーワード島の、父親はヴァージン島の出身で、モントリオールで結婚した。彼の姉はクラシック・ピアニストで、オスカーのピアニストとしての成長を助けたようだ。はじめはトランペットを習ったが、肺を患ったため、ピアノに移り、ピアノを発見してからはピアノ一途にのめり込んだ。

  1939年、コンテストで一位になり、その賞金で最初のピアノを買った。その頃、父親からピアノ・ソロの父と言われるアート・テイタムのレコードを聞かされ、ショックを受け、深く影響を受けた。後日、テイタムとは親友になったと言われる。
  1945年、モントリオールに演奏旅行にきていたディジイ・ガレスピーはオスカーのプレイを聞いて興奮して、当時、一番の権威評論家、レオナード・フェザー氏に電話で、「すごいピアニストを聞いた。アメリカで彼の紹介コンサートをやろう」と言ったが、無名のピアニストのコンサートは難しく、実現しなかった。この年、オスカーはカナダのRCAで初のレコーディングを行っている。
  その後まもなく、当時のジャズ界の帝王、ノーマン・グランツに説得されてアメリカに移り、グランツが主宰するジャズ・アット・フィルハーモニック(JATP)に参加して、1949年8月、ニューヨーク市でデビュー、聴衆を驚かせた。
  彼のテクニックは、アート・テイタムに比較しても劣らず、加えて、両手のユニゾンでビバップ・フレイズを信じられない程の早さで弾きまくる独得のスタイルは、皆が初めて聴くピアノで、聴衆に大変な驚きと興奮をもたらした。
  日本には1952年11月、JATPの一員として来日、当時、東京・有楽町にあった日劇で3日間、演奏した。もちろん、私は聴きに行ったが、このようなプレイを眼の前で聞いたのは初めてで、あまりのショックに呆然としてしまった。
  ドラムスのない、ハーブ・エリスのギター、レイ・ブラウンのベースとのこのピアノ・トリオはものすごいスイング感を出すのだった。そして、あれほどの早さでミスのない即興演奏するオスカーのプレイを聞いて、その夜は興奮して眠れなかった。
  当時、私は自分のグループを持ち、昼も夜も銀座のライブ・ハウスやクラブに出演していたが、オスカーは私が日劇に聞きに行った翌日昼、そのライブ・ハウスに来られた。私の演奏を聴いてくださったが、私は自分の手が震えていたのを今でも覚えている。彼はその夜もご自分の演奏終了後、クラブに私の演奏を聴きに来られ、翌日、ノーマン・グランツ氏を紹介してくださった。
  それから、オスカーの推薦により当時、23歳の私の初レコーディングがグランツ氏の手でなされた。そのおかげで1956年に渡米して以来、何かと彼にはお世話になっている。
  悪癖や、テクニックのなさを芸術的だと見る傾向のあるジャズの世界で、オスカーは尊敬される社交人であり、理性の高い彼は、ジャズ・ピアノの歴史にはそれまでなかった奏法を創り出し、世界を風靡した。彼の影響を受けたピアニストは無数にいるが、彼を越えたピアニストは皆無だ。レコードの数もおびただしく、LPでもゆうに77枚を越える。
  彼は10代から病気のため、手の痛さを我慢して演奏することが度々だったが、その事実は1975年まで人に漏らさなかった。それほど、芸術家としてプライドが高く、プロに徹していたことがわかる。そのオスカーの世界文化賞受賞は当然であり、ジャズ音楽への正当な認識をより深めると信じ、喜ばしく思っている。

秋吉敏子

 2007年12月、カナダ、トロントにて逝去

略歴


1925 8月15日、カナダ、モントリオールに生まれる
14歳でCBC放送のアマチュア・コンテストに優勝

1942  モントリオールのジョニー・ホームズ・オーケストラに加わり、ナイトクラブでの演奏をはじめる

1945  カナダRCA社と契約、バート・ブラウン(b)、フランク・ガリエピー(ds)とのトリオでレコードデビュー

1949 ノーマン・グランツに見出されJ.A.T.P.のメンバーとなる

1950 カーネギーホールでリサイタル、アメリカ デビューを果たす

1951 ハーブ・エリス(g)、レイ・ブラウン(b)とトリオ結成、全世界に活動を展開
各地のジャズ フェスティバルに参加

1953 初来日公演

1959 第二期トリオ結成。代表的なフォーマットの一つピアノ、ベース、ドラムスによるトリオを確立し黄金のトリオと呼ばれる

1972 グランツの始めたパブロ・レーベル社に移籍、以来カウント・ベイシー、デューク・エリントン、ディジー・ガレスビーら大物との共演で円熟した演奏時代を築く

1983 30年ぶりのJ.A.T.P.日本公演で来日

1993 脳溢血で倒れ、療養のため一線を退く

1996 病気を克服し、6月にパリ・プルエイル劇場、10月にニューヨーク・タウンホールで行った「トリビュート・コンサート」 で成功を収める

1998 5年ぶり16回目の来日、東京ブルーノートでカルテット演奏を行う

1999 高松宮殿下記念世界文化賞・音楽部門受賞

2007  12月23日、カナダ、トロントにて逝去