谷口 吉生

Yoshio Taniguchi

プロフィール

  これまで美術館や公共建築を数多く手がけてきた。素材の質感を活かし、光のあふれる快適な空間を持つ、簡素でシャープな形態であるところが、谷口の設計の共通項。主な作品としては、土門拳記念館や東京都葛西臨海水族園、東京国立博物館法隆寺宝物館、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館などがある。昨年秋には、8年越しのプロジェクトであるニューヨーク近代美術館(MoMA)の増改築が完成し、国際的に大きな話題を呼んだ。現在は京都国立博物館百年記念館、米ヒューストンのアジアハウス、スイス・バーゼルの製薬会社の実験棟などのプロジェクトに取り組んでいる。

詳しく

ニューヨーク近代美術館(MoMA)の増改築プロジェクトが昨年秋、完成したことで、現在、世界で最も注目を浴びている建築家の一人。
観客がたどる順路を直線的に配置せず、作品から作品へと自由にアプローチできる構成や、建物内の随所から街の景観が望めるようにすることで、観客にニューヨーク市の存在を強く意識させる仕掛けは、専門家だけでなく、市民からも高い評価を得た。
これまでに数多くの美術館を手がけた谷口は、このプロジェクトの基本理念について「美術館は、展示物のガラスケースのようなもの。あまり目立っては、中の物が見えない。だから、非常に単純でなければならない」と語る。
父は建築家で日本芸術院会員だった谷口吉郎。一度は機械工学の道を選択し、慶応義塾大学へ進むが、後にハーバード大学で建築を学ぶ。卒業後は丹下健三に師事し、1979年に谷口建築設計研究所所長に就任。
78年に手がけた資生堂アートハウス(静岡県掛川市)は、優美な曲線と四角形を巧みに組み合わせた手法が話題を呼び、日本建築学会賞を受賞。83年の土門拳記念館(山形県酒田市)は、独立した横に長い壁面によって人工池を区切り、壁の開口部を通じて景観と建物を融合。日本芸術院賞、吉田五十八賞を受賞した。
その後、八角形のガラスドームと、海面につながってみえる人工池を配した東京都葛西臨海水族園(1989年)や、清掃工場の内部をガラス張りにし、巨大な焼却炉、排ガス処理装置をオブジェのように見せた広島市環境局中工場(2004年)、東京国立博物館法隆寺宝物館(1999年)など、素材の質感を活かした簡素でシャープな建築で、作品ごとに高い評価を集めている。

現在は京都国立博物館百年記念館、米ヒューストンのアジアハウス、スイス・バーゼルの製薬会社の実験棟などのプロジェクトに取り組んでいる。

略歴

  1937 東京に生まれる
  1960 慶應義塾大学工学部機械工学科卒業
  1964-72 東京大学都市工学科丹下研究室及び
丹下健三都市・建築設計研究所所属
  1970-80 ケープタウン大学、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)、
東京大学、東京工業大学で教鞭
  1978 ハーバード大学建築学科客員講師(同1987年)
  1979 谷口建築設計研究所所長に就任
  1980 「資生堂アートハウス」(1978) で日本建築学会賞
  1984 「土門拳記念館」(1983) で吉田五十八賞
  1987 「土門拳記念館」で日本芸術院賞
  1990 「東京葛西臨海水族園」(1989) で毎日芸術賞
  1994 「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」(1991) 村野藤吾賞
  1997 「ニューヨーク近代美術館」増改築の国際指名設計競技で当選
  1998 「京都国立博物館百年記念館」の設計者として選定される
(2007年完成予定)
  2001 「東京都国立博物館法隆寺宝物館」(1999) で日本建築学会賞
  2003- 東京芸術大学美術学部建築科客員教授
  2004 「ニューヨーク近代美術館」増改築

 

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谷口吉生 建築を語る

 

--高松宮殿下記念世界文化賞 受賞記念講演会--2005年11月25日 16:00~17:30 於:鹿島KIビル

 

ご紹介いただきました建築家の谷口吉生です。この度、高松宮殿下記念世界文化賞を頂きまして、大変光栄に思います。先ほどのご紹介がありましたように、この素晴らしい賞はさまざまな分野の芸術家に与えられる賞です。一緒に受賞したピアニストの アルゲリッチさん、画家の ロバート・ライマンさんなど、彼らは個人で創作ができるのですが、我々建築家は、沢山の方々の協力があってできる仕事です。まず発注者である施主がいなければ始まりませんし、そして設計が始まればチームで仕事を進めます。工事でも施工に携わる方々のお世話になります。その結果がこの賞であり、大変光栄であると思うと同時に、この機会に、支援して下さった多くの方々に、心からお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

今日の受賞記念講演会も大変に光栄なことですが、私は講演が非常に苦手なので、賞に罰ゲームが一緒についてきたような感じで戸惑っています(笑) 。今までさまざまな建築の設計を手掛けてきましたが、私が最近設計したMoMA(ニューヨーク近代美術館)が特に評価を受けて、今回の受賞につながったように思います。それで今日はMoMAについてお話したいと思います。

実は昨日、ニューヨークから帰ってきたところです。と言いますのは、ニューヨーク日本商工会議所からイーグル・オン・ザ・ワールド(Eagle on the World)という賞を頂きました。日本とアメリカの関係に貢献した人に贈られる賞とのことです。一緒に受賞した前駐日大使のハーワード・ベーカー氏や現交通大臣のミネタ氏と共に、1000人位の前でスピーチをやってきましたので、少しは度胸がつきました。もう一つ光栄なことがありまして、次の日にミューニシパル・アート・ソサイエティ(Municipal Art Society of New York)という会から、ブレンダン・ギル・プライズ(Brendan Gill Prize)という賞を頂きました。この会は、ニューヨークという街の保存運動に非常に貢献している民間の団体で、グランド・セントラル・ステーションが壊されかけた時、市民運動を展開して助けた話は有名です。そういう団体から賞を頂きました。MoMAの設計で、彫刻庭園をはじめ旧い建築を全て保存した上で新しい設計をした、そのことが評価されたということです。
建築は長い年月がかかりますから、最初の思い込み通りにはいかないものです。さまざまな制約があり、予算の制限もあります。今回は設計期間中に9月11日の事件(ニューヨーク同時多発テロ)が発生して、予算も少しカットされたりしました。オープンの時には、私自身は、設計に対して不満もあったのですが、その後大変な好評をいただいたので、今回初めて一日じっくり眺めたら「思ったより良いかな?」と自分で変に感心したりして、昨晩帰ってきたわけです(笑)。

 

© The Sankei Shimbun 2005
© The Sankei Shimbun 2005

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コンペティションに参加

1996年の国際コンペに世界中から10人の建築家が招待されました。私がその一人に選ばれるきっかけになったのは、香川県の丸亀市に猪熊弦一郎先生の美術館を設計したことです。その美術館をたまたま来日していたMoMAの建築・デザイン部の学芸員、ライリーさんがご覧になり、それが縁で招待されました。その丸亀の美術館の工事は、この講演会をサポートされている鹿島さんに担当して頂きました。今日は当時のことを思い出しながら、大変に感謝しています。

最初MoMAから招待を受けたとき、私はコンペの経験がないし、世界中の有名な建築家の中で私が当選する筈がないと思いました。また、コンペには1年位かかり、自分の小さな事務所には大きな負担になります。そんな中でなかなか決心できなかったのです。友人などから「コンペには一度くらい落選した方が良い」などと変な目的で参加を勧められたのですが、「招待を受けて大変に光栄だが辞退する」という旨の手紙を用意しました。その日の夕方、同じく10人のうちの1人に選ばれた、親しい建築家ラファエル・ビニョリ氏と、偶然、一緒に食事する機会があり、その時、彼が「参加した方が良い、断るべきじゃない」と言ってくれました。私は彼が東京フォーラムを設計した時、少しお手伝いした縁もあるのです。ラファエルをご存知の方も多いと思いますが、ラテン系で大変朗らかな明るい男です。彼に「私に勝つチャンスがあるのか」と問うと、「いや私が勝つ」と答えるので、「あなたが勝つなら私が参加する意味がないだろう」と言いました。そうしたら「もし私が落ちたら君が当選するさ」と言うのです。(笑)。まぁ、そんなこんなで、じゃあ参加しようということになったのです。その晩一緒に食事をし、コンペに参加することを勧めてくれた彼や、槙文彦氏夫妻、私の妻には本当に感謝しています。

MoMAはコンペに参加した10人の建築家を選ぶ前に、約20~30人の建築家を候補に上げたと言っています。では、何故私が勝ったかと言いますと、勿論、幸運だったことがありますが、設計を始める前に、十分に時間をかけて、どうしたらこのコンペに勝てるか、まず研究しました。
一番に注目したのは、審査員が施主であること、つまりMoMAの理事や学芸員が実際に審査に参加する、もちろん、フィリップ・ジョンソンやライリー等の建築家もいますが、建築家だけが審査するコンペとは違うと考えました。そして、MoMAは収蔵作品に大変な畏敬の念を持ち、非常に大事にしていますから、「建築があまり前に出ない方が良いのではないか、建築より作品を引き立たたせる設計方針の方が良い」と判断したのです。それで、作品と鑑賞者ための空間を如何にして創るか、形態的な特徴よりも人と作品が出会う理想的な環境、雰囲気を構築することを一貫して考えました。もっともこのような考え方はMoMAに限らず、私の建築が目指す方針でもあります。
MoMAは、東京で言えば銀座の真ん中、そんな所にあります。ミッド・タウンといわれる所です。初めに分かったことですが、ニューヨークの大きな美術館や博物館はすべてアベニューに面しています。例えば5thアベニューに面してはメトロポリタン、グッゲンハイムなどがあります。アベニューである縦の通りは道路幅が広い、つまり外観が良く見えるわけです。それに対してMoMAは、道路幅が狭い53丁目と54丁目のストリート側だけに面していて、外観がよく見えないということもあり、内部空間に特徴を求め、面白くなるよう工夫した方が良いとも考えました。   そして、最終審査の過程で実際の作品見学があったことも、私には有利でした。と言いますのは、競争相手のヘルツォークもチュミも美術館の建築はあまり無かったのです。私は豊田市美術館、丸亀の猪熊弦一郎現代美術館、東山魁夷美術館などの作品がありましたし、上野の法隆寺宝物館も工事中でした。それらを全て見学して頂きました。審査員が、実際の建築を見ることによって評価がはっきりしたと思います。だから最後のところで、これはいけるかも知れないと自信がわきました。   ランドマークやアイコンとしての建築を目指してチャレンジするのではなく、美術館としての機能性、MoMA作品にふさわしい環境や雰囲気、そういうものを意図した設計方針、それと、実際の私の建築を見て評価してもらった、その二つが主な理由で当選したのだろうと考えています。

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MoMAの変遷

1929年、MoMAはホテルプラザ近くのビルの一室に、3人の女性によってオープンされました。今では世界中に現代美術館がありますが、当時は、同時代の人の作品を蒐集するというMoMAのコンセプトは、画期的でした。現代美術館のはしりです。また、絵画や彫刻だけではなく、デザイン、建築、グラフィック、写真なども展示してきました。これらにはバウハウスの影響もあったわけです。そして、最初の3人の女性の1人がロックフェラー家の出身であったことから、1932年にロックフェラーの生まれた近くの土地をロックフェラー家から借りて移ります。
1939年には、エドワード・ストーンとフィリップ・グッドウィンという建築家によって、現在の敷地の隣、ブラウン・ストーンの街並みの中に画期的なデザインの建築が生まれました。この建物は70年近い歴史の中でたびたび改築されてきましたが、今回、私は可能な限りオリジナルの姿に復元しました。これには賛否両論で、「なぜそんなことに金を使うのか」とも言われましたが、やはり最初の建物だからなるべく保存・復元しようと、内部も外部も可能な限り改修しました。残念ながら昔の工事の方が良く、改修の方は今ひとつの仕上がりです。有名なバウハウス階段も保存、復元しました。

1951年になるとフィリップ・ジョンソンが理事の一人になり、新館を隣地に設計し増築をました。MoMAはフィリップ・ジョンソンがずっと建築・デザイン部の主任学芸員で、建築に対するさまざまな歴史的」提言を行っています。例えばフィリップ・ジョンソンと歴史家のH=R・ヒッチコック氏の二人が提唱した「インターナショナル・スタイル」展をここで開催しています。当時の建築はまだ様式的、または風土に根付いたものであったのですが、そうではなく、世界的な基準で通用する国際的な建築という視点の展覧会でした。この展覧会は建築界に大きな波紋を投げかけ、モダンデザインの波及に貢献しました。 1953年、フィリップ・ジョンソンの設計でMoMAに彫刻庭園が完成しました。今回のコンペの時には「彫刻庭園は移動しても、必要があれば解体などしても良い」と言われたのですが、MoMAは一貫して自分の歴史を大切にしますから、この庭も当然保存するのが良かろうと、私は判断しました。そして彫刻庭園もそのまま保存して、可能な限り元の姿に戻しました。

1984年、シーザー・ペリが設計を担当し、ミュージアム・タワーという高層のコンドミニアムを建てました。当時、彼はイェール大学の建築学部長だったと思います。MoMAがディベロッパーとなり、上部の住居部分を販売して、その資金で下の部分を美術館として増築したのです。ミュージアム・タワーも当初は良かったのですが、エスカレータが庭の景観を邪魔するとか、デパートのようだとか、色々と言われ始めます。彼のコンセプトは良かったのですが、工事が悪かったですね。ミースのシーグラム・ビルみたいにきっちり作っていれば成功したと思います、荒っぽい工事のせいで、なかなか美術館らしい雰囲気にならなかったのです。1984年というと、丁度ポストモダンの動きが建築に現われた時代です。当時の一般的な透明ガラスを使った非常にシンプルな建築と異なり、シーザー・ペリは色ガラスを使っています。屋根も平らではなくて、なんとなくクラシックな姿で、上部に装飾的な傾向が見えます。私は、この建築をニューヨークのポストモダン建築のはしりとして、モニュメンタルな意味があると思い、新しい計画の中でどのように位置づけようかと考えました。

 

スケッチ © Yoshio Taniguchi スケッチ © Yoshio Taniguchi
スケッチ © Yoshio Taniguchi スケッチ © Yoshio Taniguchi

 

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コンペティションの経緯と基本理念

1996年、コンペの開始前に集まって写真を撮りました。ビニョリ、チュミ、コールハースもいます。それからヘルツォーク&ド・ムーロン。真ん中に私がいます。もしコンペをやるなら真ん中に立つと必ず勝てますよ(笑)。後から見て、よく真ん中に立ったなあと感心したりしています。この10人の人選には、かなり時間をかけて選考し、そして60歳以下も一つの基準だったらしいのです。私は勝ち抜いた時には59歳が60歳になっていて「規約違反だ!」と冗談ですが皆に脅かされました(笑)。とにかく私が最年長でした。

コンペは2段階で、第1段階では、「この緑の箱に入るものなら模型でも写真でも何でも、なるべく沢山のアイデアを、提案して欲しいと」シャレットと言われるコンペ方式でした。私は提案に加えて丸亀の美術館の写真や、必ず自筆のものを入れろというので、自筆のスケッチなども入れました。
私はスケッチをよく赤と青の色鉛筆で描きます。黒で描くよりアイデアの発展が自分でよく分かります。その後、オープニング記念のTシャツをこのスケッチで作りたいとMoMA側が言ってきた時、アメリカだし著作権料をちゃんとくれるだろうと期待していたら「払わない」と言う。さすがだと思いましたね。コンペの時すでに「将来、これらを何に使われてもお金は取らない」という契約にサインしてしまっていました。感心しながら降参しました。そんな話でMoMA側は、オープニングで私のスケッチを使ったTシャツが結構売れて儲かったと喜んでいました (笑) 。

第1段階で10人を3人に絞り、私とバーナード・チュミ、そしてヘルツォーク&ド・ムーロンが残りました。
第2段階に入ると、残った3人に膨大なプログラムが出題されて、ここからが本当のコンペです。細かな規定、色々な法律、あらゆる面で要望どおりに通り対応しなければならない、構造から設備まで一応考慮に入れて、設計をさせられました。敷地は不定形ですし、保存の問題があり、ニューヨークの斜線制限がある、消防法がある、増築と改築、さまざまなことがあって、思うような設計が出来ず非常に苦労しましたね。
図面だけでなくインタビューも受けました。日本のプロポーザルやコンペのインタビューはせいぜい15分ですが、MoMAでは、延々3時間、相手はロックフェラーやフィリップ・ジョンソンなど理事の方で、プライベートなことも含め質問責めでした。これから10年間ぐらいは付き合うことになると、一緒に食事や旅行をするかも知れないから、あなたがどんな人か知らなければならないと言うことでした。

さまざまな提案をしましたが、そのうちの一つは、可能な限り既存の建築を保存し、MoMAの歴史を継承しながら、美術館を新しく生まれ変わらせるという方針です。シーザー・ペリのミュージアム・タワーは、特にタワー部分をマンハッタンの建築の歴史を象徴するものとして新しい計画の中に活かそうと考えました。これまでタワー部分は、全体の建物の上に乗って建っていたので、下からはその存在がほとんど分かりませんでした。コンペティションに出した私の模型を見て、ある新聞記者が「美術館に、なぜこんな巨大なタワーを建てる必要があるのだ」と言った位に既存のタワー部分は目立たない存在でした。そこで私は、高層建築は地面から直接立ち上がっているように見える方が良いと考え、タワー部分を彫刻庭園の地面まで届くように延長してMoMAの新しい建築群の中に視覚的に加わるようにしました。それも評価された要素の一つであったと思います。

彫刻庭園は長い間ニューヨークの人に愛されてきましたから、可能な限り当初の姿に復元しました。そして庭園と、新しい計画の中心に設けた大きな吹き抜け空間とを視覚的に連続させて、新生MoMAを象徴するコア・スペースとして位置づけました。また、なるべく彫刻庭園の空間を内部に取り入れるために大きな庇を外部に向けて出しました。これは外部空間を取り入れるため丸亀市現代美術館でも法隆寺宝物館でも使った方法で、日本の昔の建築にも見られる手法なのです。外部と内部の「中間領域の構築」は、私がよく用いる建築ボキャブラリーといいますか、要素です。
MoMAが増築のために新しく購入した敷地の部分には、要求された諸機能の中で一番重要と思われたギャラリー空間部分を配置しました。MoMAは、ギャラリーにおける作品の展示活動に加えて、もう一つ、実物作品を通して、アートに興味を持たせたり、芸術家を育成したりする、教育・普及活動も重要な使命と考えています。そこで、彫刻庭園の片側にギャラリー部門、もう一方に教育部門を置いて、MoMAのこの二つの使命を、明確に建築として表現することも提案しました。

私の設計におけるテーマは、光、素材、プロモーションの組み合わせ等によって空間を創造することです。なるべく様式的・装飾的な表現を避けて、建築の基本的な要素だけで純粋な形を求める方法ですから、モダニズム建築の典型であると言えるかもしれません。特に美術館の設計においては、鑑賞者の動線に沿って、異なる内部空間や眺望が展開されていくことも方針としています。

 

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MoMAの完成

少し面白い写真をお見せします。ニューヨークも日本のように地鎮祭がありまして、シャンペンを飲み、日本の鍬入れ式のようなイベントもあります。この写真は、ロックフェラー氏、ニューヨーク州知事、ジュリアーニ前市長、館長、理事の人びと、私、みんなで鍬入れをしています。
工事は大変でした。一度に全体をやるか部分を壊しながら進めるか、段階計画は難しかったです。ニュージアム・タワーには、上部に何百人もが居住している、その機能を維持しながら工事を進めるのは本当に困難な条件でした。

早朝で人がいませんが、これが53丁目の新しいエントランスで、建築表現は非常にシンプルです。向こうにニューヨークのセント・トーマス教会、1951年のフィリップ・ジョンソン、1939年のエドワード・ストーンの建築があり、1984年のシーザー・ペリのタワーがあります。そして53丁目沿いに並ぶさまざまな建築の外観を際立たせて、MoMAの建築の歴史を示す展示物のようにすることを提案しました。それとは対照的に私の建築は、極力、外側を単純にして、その分、内部に変化に富む空間があるように工夫しました。

新しい入り口からは長手方向の庭が見えます。向こう側に教育部門が見えて、こちらにギャラリー部門が見えますから、中に入ればMoMAのファミリーに囲まれたような雰囲気になるはずです。教育部門は現在工事中で、まだ出来ていないので、私だけが「早く完成してほしい。もっと良くなる」と主張しているのですが、周りの人には今で十分だ、と言われています(笑)。とにかく、全部出来るのを楽しみにしています。彫刻庭園の両側に人が入り、図書館で読書する人なども見えれば、もっと美術館という街に囲まれた雰囲気になると思います。設計した新しいMoMAの中にはさまざまな空間があります。そこには、素晴らしい芸術作品と人が出会い、人と人とが平和な雰囲気の中で出会うにふさわしい環境を創ろうと考えました。この計画においては、単体の建築設計ではなく、建築が集合した都市のような美術館を設計することを心がけました。

53丁目と54丁目を自由に通り抜けることができる空間を作りました。5番街と6番街の中間になるので5.5番街と人は言っています。上部のスカイライトから光が入るところが中心になっていて、そこまで来ると庭が見えます。庭の眺めに引き寄せられて美術館へ入っていくという構成です。この照明も提案とは違うのですが、コストの都合でこうなりました。贅沢な素材よりは、全体の建築のプロポーションと光を重視しましたから、柱も細くして、もちろん地震がないので日本よりずいぶん楽なわけですが、構造的になるべく横の大きな壁に力を持たせて、垂直力だけ持たせて柱を細くすることを考えました。

この大きな吹き抜けについては、オープン前に建築評論家の誰かが、「こんな大きな吹き抜けは必要ない、MoMAはもっと個人的なスケールであるべきだ」と言われたのですが、私は非常に良かったと思っています。これが無かったら息ができないですね。今、この中は人でいっぱいです。非常に大きな吹き抜けですが、1万人の人が入っても、ここで緩和されます。ロビーも上と下の2段に分かれていて、このロビーが人の流れに対するクッションの役目を果たしています。長く待たせられる時もここで時間を過ごせるわけです。

 

ニューヨーク近代美術館、2004 シーザー・ペリ設計のタワーをのぞむ彫刻庭園 53丁目と54丁目を通り抜けるエントランス・ホール 吹き抜け
ニューヨーク近代美術館、2004 シーザー・ペリ設計のタワーをのぞむ彫刻庭園 53丁目と54丁目を通り抜けるエントランス・ホール 吹き抜け

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MoMAはコンペ開始前に、本当にこのマンハッタンの中心地で永久にとどまるのか、そして同時代の作品を集め続けて限りなく膨脹していくのか、それとも、20世紀までの美術館として凍結してしまうのか。このようなことなどを、長いこと慎重に討議したすえに、MoMAは今後も同時代の現代アートを集め続けていくことを宣言して改築を始めました。ですから、私の提案は、今度の拡張計画で現代アートのギャラリーを重視し、最も人が集まりやすいロビーの隣で天井の高いところに配置したのです。そこも評価された一因でした。コストなどいろいろなことで、ギャラリーの床や天井の材料や、ディテールなどはだんだん妥協していくうちに最後に今の状態になり、こういうギャラリーが出来ました。豪華ではありませんが十分だと思います。

館内ではいろいろな場所からマンハッタンの都市景観が見えるようにしました。非常に大きな美術館で、全体で約6万㎡ありますから、館内の動線に沿ってギャラリーを連続して歩くと疲れます。それでギャラリーの間に大きなパブリックスペースや小さなロビーのような空間を配して、作品鑑賞の余韻に浸たりながら、読書や人との出会いなども楽しめる場所を設けました。それらの場所からは必ずマンハッタンの風景が見えるようにしました。ニューヨークの中心地でMoMAの作品を鑑賞しいているという実感から、特別な感動が沸きます。MoMAの作品は多くの異なる場所で巡回展示されることがあります。しかしここで観賞する時は、あたかもホームグラウンドのサッカー試合を見る時のような、特別な感動を得ることができるようにしたかったのです。また、道路側に面するギャラリーの外壁は、ガラスのカーテンウォールとその内側の壁で2重になっていますから、内側の壁の一部を取り払うと、窓になり眺望が加えられます。展示によって、開口部の位置や光の量を変えることもできるのです。これにはMoMAの学芸員が将来喜ぶと思います。

お蔭さまで建築は評価を頂きましたが、私の建築云々よりも、MoMAには素晴しい作品を見に沢山の人が世界中から集まります。日本の美術館とは違って、会員は10万人位いて、子供のときから美術館サポートの役割が与えられています。新しい美術館を、大勢のMoMAのファンに喜んでもらえて本当に良かったと思っています。計画の途中で9.11が発生して、ニューヨークの人々は非常に長く、暗い時代を過ごさなければなりませんでした。新生MoMAのオープンは、そのような人々にとって、初めの文化的で明るい出来事でした。世界中から多くの人が来てくれる平和な雰囲気、待ち望んでいたことに市民は歓喜しました。

全く原稿もないままにお話ししましたので、お分かり頂いたか分かりませんが、MoMAの設計の経過概略を話させていただきました。ありがとうございました。

 

窓とマンハッタンの風景
窓とマンハッタンの風景