ジャスパー・ジョーンズ

Jasper Johns

プロフィール

  1958年、ニューヨークのレオ・カステリ画廊での初個展で発表した「旗」をはじめ「標的」、「数字」などをモチーフにした絵画は、ニューヨーク美術界に衝撃を与え、後のポップ・アートへの道を開くこととなった。
1930年、ジョージア州オーガスタに生まれ、サウスカロライナ州の田舎町で育ち、同州立大学で美術を学ぶ。その後ニューヨークに移るが、程なく兵役に服し、最後の半年は仙台に赴任する。
52年、ニューヨークに戻り、書店などで働きながら商業美術学校に通い、先のレオ・カステリに認められ一躍画壇に躍り出た。夢で旗を描いていたから、目覚めてすぐ最初の旗を描いたという。その画面は色彩が複雑に重ねられ、新聞紙などがコラージュされ、蜜蝋で固められ、力強く美しい。
70年代は「敷石」や「網目」文様を中心とした緊張度の高い抽象様式が続く。80年代に入ると、人のシルエットなど新しいモチーフが登場し、自伝的要素の強い「四季」シリーズを発表。その絵画論の基調となるのは「見ること、思考すること、目と思考の関連だ」という。にもしばしば訪れており、大作「アンドレ・マルローに捧ぐ」(1976)が箱根・彫刻の森美術館に収蔵されている。

詳しく

  1958年、ニューヨークのレオ・カステリ画廊で開かれた弱冠26歳のジャスパー・ジョーンズの初の個展は第二次世界大戦後の美術史上、特筆されるべきできごとだった。『旗』をはじめ『標的』、『数字』など日常的な事物をモティーフにした絵画はニューヨーク美術界に多大な衝撃を与えた。この最初の個展でニューヨーク近代美術館が3点を買い上げたことも話題になった。ジョーンズの『標的』や『数字』は、後にポップ・アートへの道を開くことになる。彼の影響を受けたアンディ・ウォーホルは、あの有名なマリリン・モンローや毛沢東やコカ・コーラのビンを描くことになるのである。

1930年ジョージア州に生まれ、サウスカロライナ州の田舎町に育ったジョーンズがニューヨークに出てきた1950年代初頭、画壇ではデ・クーニングらの抽象表現主義が全盛を極めていた。「この運動に反発しようとは思わなかったが、まねは避けたいし、自身の居場所は確立したかった」という。ニューヨークに出てからは商業美術学校に通うかたわら、さまざまな職業についた。やがて画商レオ・カステリに認められ、先の個展で一躍、画壇に躍り出た。「旗」や「標的」といった即物的で、しかも自由に変更できないイメージを持ち込みながら、それらの画面は抽象表現主義的な、濃密な絵具の塗りの痕跡を残していた。この画面の美しさは、後のクロス・ハッチ(網目)を用いた純抽象画面にも通ずるジョーンズ芸術の特徴でもある。画面にオブジェを加えるという新たな技法にも果敢に挑戦した。
「描くイメージよりもエンコースティック(蜜ろう)を使って画面を塗り込めたり、コラージュを試みたり、描くメディアム(媒体)や技法が優先していたようだ」と、当時を回想する。1954年、5歳年上の画家、ロバート・ラウシェンバーグと出会い、彼を通じて故ジョン・ケージやマース・カニングハムらの音楽家や舞踊家とも知り合った。「ボブ(ラウシェンバーグの愛称)とは5、6年、同じビルにスタジオを持って、議論し、互いの作品を批評し合った。これは私の仕事の展開にとって、とても重要なことだった」。ふたりは、ティファニーのウインドー・ディスプレーを共同でデザインしたりして、画業を続けるための資金にあてた。
代表作の『旗』シリーズも、このころにはじまった。なぜ、旗だったのか。「夢のなかで星条旗を描いていた」という。夢から覚めて、とても意味深い夢のように思えた。すぐに星条旗を主題にした最初の絵を描いた。「標的」、「数字」と主題はふえていく。やがて「地図」も加わり、フラッグ・ストーン(敷石)やクロス・ハッチを用いた純抽象作品に向かう。画面にコラージュや版画やオブジェまで取り込む、多彩で複雑な技法を駆使したジョーンズ芸術はまた、幾重にも入り組んだ意味をもち、観念性が強い。その絵画論の基調となるのは、「見ることと、思考すること。目と思考との関連」だという。「私の作品をネオ・ダダといい、マルセル・デュシャンに関連づける批評家もいる。たしかにデュシャンの作品は素晴らしい啓示だった」。
1970年代以降は、美術史上の巨匠たちや先輩の画家たちのモティーフや技法の引用が目立ってくる。ボッシュやグリュネヴァルトからレオナルドの『モナ・リザ』、ムンクやピカソと臆面もない引用で、画面には重層的で濃密なニュアンスが加わった。
1953年、兵役で仙台に駐屯しているが、帰国後、評論家、東野芳明の来訪を受けてから、画家としての本格的な日本との付合いがはじまった。東野はジョーンズをはじめ、欧米の美術の新たな潮流を精力的に紹介する一方、故・志水楠男が主宰する南画廊で、その潮流を担う作家たちの個展を次々に開催、日本の美術界に多大な刺激を与えた。ジョーンズは世界文化賞の授賞式に出席のために来日したおり、病床の東野芳明を見舞っている。
1980年代に入って制作された『四季』のシリーズには、人型が影絵のように現れる。アメリカの詩人、ウォレス・スティーブンスの作品から想を得たシリーズで、自伝的要素が濃いともいわれ、トラディショナルへの回帰かと論議の的となった。
ジョーンズは今、1950-60年代のニューヨークのアートシーンを、「美術界は狭くてまとまりがあり、活気に満ちて実にエキサイティングで、誰とでも知り合い、語り合った。今は美術界も巨大化してしまった」と振り返る。絵画の危機が叫ばれて久しいが、この「画布と絵具と筆だけの単純でダイレクトなすばらしいメディアの可能性を信じている」という。

松村寿雄

略歴

  1930
5月15日、ジョージア州オーガスタに生まれる。幼年時代の大半はサウスカロライナ州アレンデールの祖父母のもとで過ごす
  1947-48 サウスカロライナ州立大学で美術を専攻
  1949-51 ニューヨークの商業美術学校に入学するものの、二期で退校。徴兵されて軍務につき、うち6ヶ月は日本で過ごす
  1952-55 ロバート・ラウシェンバーグに会い、一緒にティファニーなどのウィンドー・ディスプレーの仕事をする。またジジョン・ケージ、マース・カニンガムと会う。「旗」や「的」とシリーズを制作しはじめる
  1956-57 「アルファベット」の制作開始。カンヴァスにオブジェを導入し始める
  1958 ニューヨーク、レオ・カステリ画廊で初個展。「旗」、「的」、「数字」などの作品を展示
  1964 ニューヨーク、ユダヤ美術館で初の回顧展。日本旅行中、「見張り」、「おみやげ」を制作
  1967 フラッグ・ストーン(敷石)をハーレムで見て、これをモチーフとして使い始める
  1972 絵画の大作「無題」を制作、クロス・ハッチのパターンが使用される
  1977-78 ニューヨーク、ホイットニー美術館で回顧展。アメリカ、ヨーロッパ各地、日本を巡回
  1978 巡回回顧展のため来日
  1988 第43回ヴェネツィア・ビエンナーレにアメリカ代表作家として出品、国際大賞を受ける
  1990 ワシントン、ナショナル・ギャラリーで「ジャスパー・ジョーンズの絵画」展
バーゼル、ロンドン、ニューヨーク(ホイットニー美術館)へ巡回
  1993 高松宮殿下記念世界文化賞・絵画部門受賞
  1996 ニューヨーク近代美術館で回顧展。ケルン、東京へ巡回
  主な作品

1955   「旗」(ニューヨーク近代美術館)
「数字」

「標的」
「アルファベット」
1961   「地図」
(ニューヨーク近代美術館)
「海辺で」
1967   「ハーレム・ライト」
1975   「泣く女」
1985-86 「春、夏、秋、冬」