授賞式写真
日本美術協会のあゆみ
明治時代は、日本にとって大変動の時代であった。徳川幕府のもとで2世紀半にもわたった鎖国が終わりを告げ、西欧の文化が急激に流入してきた。国の指導層は、世界の進歩から取り残されてきた遅れを取り戻すため、懸命にその吸収を奨励したが、その一方で、日本の伝統美術は衰亡の危機に瀕した。このような中、固有の美術を守り、その復興をはかることを目的とした日本美術協会の前身、「龍池会」が明治12年(1879)に発足した。

龍池会の第1回美術展は 1883年、フランスのサミュエル・ビング(1838-1905)の手によってパリで開催され、翌年も続いて開かれ、日本の美術工芸に対するヨーロッパの関心を喚起した。また、1867年のパリ万博に日本から幕府と薩摩・佐賀の両藩が初めて参加。明治政府は万博の意義を一層深く理解し、1873年のウィーン万博以来、毎回積極的に参加した。その主な目的は西洋技術の導入であったが、日本の美術工芸品の海外市場開発もねらいのひとつであった。

明治政府の要人で日本赤十字社の創始者でもある佐野常民を会頭として発足した龍池会は、総裁に筆頭皇族である有栖川宮熾仁親王殿下を戴き、明治20年(1887)には名称を日本美術協会と改めた。上野公園内の土地を宮内省から無償貸与されて会館を建て、美術展覧会を開催するなど、官僚機構がまだ整備されていなかったこの時代に、国の美術行政を担う機関へと発展していく。有栖川宮熾仁親王殿下の没後、有栖川宮威仁親王殿下が総裁に就任された。皇族を総裁に戴く当時の協会の権威は特別なもので、国家機関に準ずるものとされた。

1897年、有栖川宮威仁親王殿下は英国ヴィクトリア女王の即位60年祭に出席された。そしてその帰途、パリに立ち寄られた際、1900年パリ万博に日本の古美術品を出品するようフランス政府から要請を受け、日本美術協会はその選定を命じられた。華族・名家・古社寺、および個人コレクションなどから全国的な規模で選りすぐれられた美術品は約1,000点におよび、パリ万博においてトロカデロ庭園内に建てられた陳列館に展示された。これは最大級の日本古美術展であり、日本の美術を海外に紹介する大きな一歩となった。日本の美術工芸が西欧に与えた影響はアール・ヌーヴォーの様式などにあきらかに見てとれる。

日本美術協会はこの後も上野の展示館で美術展覧会を定期的に開催するなど、日本の美術界の中心的存在であった。しかし、明治40年(1907)、文部省に美術課が設けられて美術行政を担当し、初の官選の美術展として文部省美術展覧会(文展)が開かれるようになると、日本美術協会は当初の特殊な地位を失い、活動は退潮に向かう。また、大正12年(1923)の関東大震災により建物の大部分を失ったことは大きな打撃となった。その後も展示会活動は続けられたが、第二次世界大戦の激化により昭和18年(1943)には、第123回展をもって中断され、協会の活動は休眠状態に入る。この間、大正2年(1913)に有栖川宮威仁親王殿下が死去され、総裁は久邇宮邦彦王殿下に、さらに昭和4年(1929)には高松宮宣仁親王殿下に引き継がれた。

戦後、日本美術協会は活動を再開、昭和43年(1968)には美術展示館が竣工されたが、その歩みは遅々としていた。昭和46年(1971)、高松宮殿下のご下命を受け運営を担うことになった鹿内信隆は直ちに展示スペースの拡大と整備を計り、47年(1972)には名称を“上野の森美術館”と改め、初代館長に就任した。上野の森美術館は1993年のニューヨーク近代美術館展で79万人という画期的な入場者数を記録するなど着実な活動を続けている。 

昭和63年(1988)、協会が2世紀めの活動に入るのを記念し、58年の長きに渡り総裁をつとめられた殿下のご遺志にもとづいて高松宮殿下記念世界文化賞を創設。これは文化芸術の分野でノーベル賞を補完しようという大きな目標に基づき、世界的に優れた業績を残した芸術家を顕彰し、文化芸術の発展に寄与するとともに世界の人々の理解に役立てようというものである。絵画、彫刻、建築、音楽、演劇・映像の5部門で、ノーベル賞に含まれる文学以外の芸術を網羅している。平成元年(1989)その第1回授賞式典が明治記念館・憲法記念館でおこなわれた。平成2年(1990)、鹿内の死去により、瀬島龍三が会長に就任。平成 10年(1998)、高松宮殿下記念世界文化賞は10周年を迎え、天皇・皇后両陛下、常陸宮・同妃両殿下、高松宮妃殿下ご臨席のもと、これまでの受賞者の多くが出席して祝賀行事が行われた。
また、日本美術協会は平成9年(1997)、世界文化賞の一環として若手芸術家奨励制度を発足させ、次代を担う芸術家の育成に役立っている。